存在に零度を与え、〈零度の存在〉にする。これが親鸞の見た「大行」ではないか。だから修道論の意味空間にある「行」とは、まったく次元を異にしている。人間が「~する行」ではなく、「~されている状態」を意味する。親鸞の見る「大行」は、受動態を表している。それを物語の意味空間で、「如来がされている」と語る。そのように作用そのものを擬人化すると、我々はそれを「人格」として固定観念化してしまう危険性がある。まあその危険も織り込み済みのことなのだが。
「されている状態」として〈いま〉というものを、再発見する。〈いま〉が「されている状態」であれば、その〈いま〉は過去に遡れる。どこまで遡れるのかと言えば、「弥陀成仏のこのかた」までだ。「されている」はどこまでも遡り、〈存在の零度〉までに遡る。
4歳の孫から、「なんでひとは死んじゃうの?」と聞かれた。まさか4歳の孫が、そんなことを問うのかと驚いたが、正答しておいた。「それはね。生まれたからだよ」と。孫はその答えには反応せず、知らんぷりで、違う遊びを始めた。その変わり身の早さにも驚いた。ものすごいことを問うたのだが、問うたことだけが輝き、問うた本人は、もうそこにはいなかった。その問いの余韻に浸ったのは私一人だった。
本当は「死ぬ」ことも、そして「生きる」ということも知らずにいるだけなんだが、人間は問わずにいられない生き物だ。孫は、〈存在の零度〉に触れるまで、その問いを無意識下に温存するのだろう。
まあその「問い」も、何ものかに「問わされて問うている」というのが本当のところだろう。自分の思いからすれば、そんな「問い」は問いたくないのだ。でも「問わざるを得ない」のだろう。