〈存在の零度〉という言葉が好きだ。だからもっとこの言葉を豊かに育てなければならない。何かを考えているときは、そのことで頭がいっぱいで他のこと考えることはできない。しかし、フッと、いままでもの思いにふけっていたなあと気付くことがある。それが〈存在の零度〉へ帰る体験だ。旅行から帰ってきて、自宅のドアを開けたときのホッとする体験。これが〈存在の零度〉へ帰る体験だ。
お釈迦さんの覚りが、「覚」という言葉で表現されるのも、〈零度の存在〉への帰還を意味しているのだろう。いままで、ある思いに執われていたことに覚めるという体験だ。覚めるときは、つねに〈いま〉を獲得する。煎じ薬を鍋で温めるとき、タイマーを掛ける。そうしないと、ガスレンジで鍋を温めていることを忘れたしまうからだ。忘れることがしばしばだったので、タイマーを掛けるという習慣を作った。鍋を火に掛け、テレビを見ていると、タイマーがピピッピピッと鳴る。それは毎度のことなのだが、いつもハッとさせられる。これが〈存在の零度〉へ帰る体験なのだろう。
おそらく、それを仏教者は、「空」とか、「如実知見」とか、「中」とか、「見性」とか、「縁起」とか、様々な言葉で語ろうとしたのだろう。それで私は彼らが直観したであろう意味空間を、〈零度の存在〉と言い表してみた。この言葉を、コロコロとこころの中で転がしながら味わってみるといろんな思いが湧いてくる。「さあこれからだ」という思いも湧くし、「もうすべては終わっているのだ。だからそこから生きるのだ」とも思う。「さあこれからだ」という思いは、未来に向かって勇敢に好奇心をもって進むイメージだ。しかし、もう終わっているのだというのは何か悲観的なイメージではないか。それでも人類は、人類の終末を見てみたいという欲求を消すことができない。西洋一神教が、「終末」ということをテーマにするのは、要するにお前の最期はどうなるのか、それを知りたいという欲求があるからではないか。終わりを知りたいし見たいのだ。
テレビドラマを観ていても、結末がどうなるのかを知りたくなるという欲求と同じだ。結末が分かると、「なあんだ、そんなことだったのか」と思う半面、それを知った自分が安心していることに気付く。結末を知ると安心するのだ。おそらく〈真・宗〉が目指しているところは、終わりから生きるということではないか。つまり、臨終を基点にして、そから始まる生である。だから、さあこれからという思いにも、二通りあるように思う。それは臨終を消そう、見ないようにしようという「さあこれから」と、臨終を基点にして始まる「さあこれから」と。
〈存在の零度〉とは、私に取っての「イメージ言語」(河合隼雄用語)だ。だからいくらこの言葉の意味を述べ尽くそうとしても述べ尽くすことはできない。ゼロというのは何もないという意味もあるし、ここから始まるイメージでもある。さらにすべてを包むというイメージでもある。
いのちの原点が〈存在の零度〉であるならば、あなたは私であったかもしれないし、私があなたであったのかもしれない。朝方、カーカー鳴くカラスをうるさいなあと思う。でも、あいつが俺だったかも知れないし、俺があいつだったかも知れないのだ。存在の本質は〈零度〉だから、融通無碍だ。たまたまカラスと人間という結果は異なるが、存在の必然性は融通無碍だ。そう思うと、あのカラスも悲しい生き物だと同情が生まれる。何も好きこのんでカーカー鳴いているわけではなかったのだ。カーカーと鳴かざるを得なくて鳴いているだけなのだ。カラスも悲しい生き物だったのだ。