ダッシュの重み

1月23日以来、つぶやきの更新を怠っている。これはひとえに仕事が集中的に重なってしまい、つぶやきの更新まで手が回らなくなっているからだ。しかし、更新をしないていると更新をしなくてもよいのだという思いも湧いてくるから不思議だ。それでも、隙間を縫って更新することで、何かを執筆することを通して、また新たな発見があるのだから、やはり更新は続けなければと思っている。書くという行為は、書くことで新たな発見がもたらされ、教えられるという不思議な行為だ。だから、書き続けなければ、ちゃんと考えることもできていないし、発見も生まれない。
 書くというい行為は、自分の内面にあるものを書き連ねていく行為だと思われるかもしれないが、そうでもない。書くという行為を通して、初めてモヤモヤしていたことが固まりだし、考えるということが成り立つのだ。だから、書かなければ、ちゃんと考えたことにはならない。書かなくても、ひとはちゃんと物事を考えていると思っているが、それはそうではない。自分の中にあるのか、外にあるのかは分からないが、書くことによって、それが方便法身という形になる。書かなければ、それは法性法身のままであって、無色透明な、それこそ何にもないのと同じ事になる。
 そうそう妙好人の西田辰正翁が、〈真・宗〉とは何かということを表現するためにを筆を使って、「〇」を書いて、その右下にダッシュでチョンと書いたと聞いたことがある。つまり英文字の「Q」に似た形だ。(これがイラストで表現できないのが歯がゆい)〈真・宗〉が「〇」であったら、それは完全円満していて、まさに法性法身だから人間には分からない。その「〇」の右下にダッシュを打つことで、初めて〈真・宗〉が言葉として姿を現すという意味だと私は受け取っている。そのダッシュの意味が重たい。
 ダッシュは「回心」であり、「三願転入」であり、「唯除」である。まあ一言で言えば「念仏」ということになるが、それを「念仏」と言ってしまうと、また表現しようと思っていることから遠くなってしまうように感じる。
 つまり、我々の頭にピッタリ収まる観念で、それを表現したら、全部ダメなんだ。それが「ダッシュ」の重みだ。
「〇」を傷つけ、損ない、血を流させる。それがダッシュである。