仏説としての「ぞうさん」

昨日はブッディ・サロン(輪読会)で、初めて『仏説まど・みちお経』を読み始めた。これは2017年に出版したもので、いまから6年前になる。私も自分の書いた文章と久しぶりに会うことになり、少し気恥ずかしい感じも持った。まあそれにしても、いまの自分の考えていることと、左程変わっていないものだなあと、改めて思わされた。
 一番最初の詩は、有名な「ぞうさん」だ。
「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね そうよ かあさんも ながいのよ ぞうさん ぞうさん だれが すきなの あのね かあさんが すきなのよ」
 この詩は知らないひとがいないくらい有名な詩だ。團伊玖磨さんが作曲して童謡になり、さらに有名になったのではなかろうか。
 私は、子象が鼻の長さをいじめられたとき、それを反論するために歌ったものではないかと、コンプレックス論で書いている。しかし、皆さんはそうは感じていないことも分かった。自分は象であり、鼻の長い生き物だが、それはお母さん譲りのものだし、それがとても嬉しいのだと、素直な感情を歌ったものではないかと。
 あるいは、ただ象は鼻が長い生き物で、子象だから母が好きなんだと、ただそれだけを歌った詩じゃないかという反応のひともあった。
 そう思えば、この「ぞうさん」という詩に対する感じ方も、年齢に応じて変化してくるものでもあり、また読むひとの立場によって違った受け止めもできるものだと教えられた。これぞ「仏説」の醍醐味ではないか。「仏説」が「如是我聞(かくの如く我、聞けり)」で始まるのは、「自分に於いては」が抜ければ仏説ではないないという意味だ。どこかに客観的な「仏説」や〈真実〉があるのではなく、自分自身に感じられ、受け取られることを外しては成り立たないことを語っている。それほどまでに、「自分」ということの視座が重たく大切なのだ。
 しかし、それであれば、各人の受け止めだけが「仏説」になってしまい、「正しい仏説」ではなくなってしまうのではないかと心配するひとも出てくる。皆さんの、バラバラの受け止めでよいのだろうか、と。そういう心配をするひとは、本質的に「自分に自信のないひと」だ。自分の感じ方に自信が持てないので、誰か、どこかの権威者が「これは間違いなく正しい仏説ですよ」と言われることで、不安を払拭しようとする。つまり、「自分」のないひとだ。
 なぜ「自分」の感じ方に自信が持てないのかと言えば、「自分」は、あらゆる人々の中の特殊な存在だから、自分くらいが感じたことは取るに足らないことだと見くびっておられるからだろう。まあこういう感じ方を私は「一世界全人類包摂世界観」と呼んでいる。「自分」は大勢の人々の中の一人であって、吹けば飛ぶような他愛のない存在だという感じ方である。これは一見すると謙虚のように見えて、実は「自分」を失う感じ方である。
 それに対して〈一人一世界〉が、本当の世界観であり、これを「仏説」は暗示しているのだろう。この世界観はよく「ワガママ独我論」と勘違いされる。「ワガママ独我論」とは、「自分」がこの世の中で絶対に偉い、この世の存在は自分の欲望を叶えるためにあるのだと見る、差別観だ。それに比べて〈一人一世界〉は、「自分」は世界によって成り立っているとみる見方であり、「自分」なんていう実体がないと感じている世界観である。「ワガママ独我論」の「自分」とは、単なる「思い」であると嘯き、事実は無料無数の因縁があるだけで「自分」なんという実体はないと思っている世界観である。だから世界が抜ければ「自分」はどこにもない。世界が「自分」であり、「自分」が世界である。
 だから「ぞうさん」を読んでどう感じるかということも、唯一の「自分」が感じることだが、それは「一切衆生の典型」として感じているだけなのだ。「一切衆生の中の特殊な自己」に、「一切衆生の典型としての自己」が感じられる世界である。
 これはちょうど親鸞が、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(歎異抄・後序)と言った「一人」の構造と同じである。「親鸞一人」とは「一切衆生の中の特殊な自己」である。この自己に「一切衆生の典型としての自己」が成り立つのだ。特殊な親鸞が救われたのだから、他のいかなるひとも救われないわけがないという自己の成立である。「一人の救い」が、「普遍の救い」を証明するのである。