『〈真実〉の奴隷』を発刊す

第11回目の「まっさん塾」でのお話が、ようやく本になった。題名は『〈真実〉の奴隷』である。こんなテーマを掲げると、いかにも自分が〈真実〉を知っていて、それの奴隷にさせられていると思われそうだ。しかし、そんなヒロイズムから生まれたテーマではない。
 一応、〈真実〉という言葉はあるのだが、それが一体どういう意味なのか私には分かっていない。これは私に表現を促してくる得体の知れないはたらきを、仮に〈真実〉と名づけただけだ。思えば、外にも「〈真実〉のデッサン」と命名したエッセイ集も、第三巻まで発行した。〈真実〉は、何も私の独創ではない。親鸞が、全著作を通して123回も使っている言葉である。まあ親鸞も、〈真実〉などは分からないのだ。「こころもおよばれず。おもいもたえたり。」(『唯信鈔文意』)とおっしゃっている。だから仮に、方便として〈真実〉と命名しているだけだ。
 そもそも、「阿弥陀さん」という言葉も、仮にそのように表現しているだけで、誰も意味を知っているわけではない。まあ〈真実〉と同義語なのだ。
 自分では、何もそっちのほうに行きたいとも思っているわけでもないのだが、ただ私を、そっちのほうに引っ張っていく力のようなものをイメージして、〈真実〉と言っているだけだ。先日も、車を運転していたとき、赤信号で停車した。目の前をたくさんの人々が横断歩道を行き交っていた。それを見ていて、彼らはいったいどこに行こうとしているのだろうかと思った。きっと彼らは目的があって、いま交差点の横断歩道を渡っているに違いない。何の目的もなしに渡っているひとはいないだろう。仕事に行くためか、誰かとの待ち合わせか、家路に急いでいるのか、それは分からない。しかし、それが究極の目的ではないはずだ。一つの目的が済めば、また次の目的地が生まれるのが「生きる」ということだ。そうやってどんどん突き詰めていくと、究極の目的地はどこなのか。このように究極まで登り詰めさせる作用こそが〈真実〉というものだ。
 目的地を、一言で言えば、それは「死」である。この世で間違いないことは、「誕生」と「死」である。他に様々なことが、その間に挟まっているが、突き詰めれば、その二つだ、と人間には見えている。そう思うと、交差点を渡っていることそのものが、実に「宗教的」だと見えてしまった。まさに自分の行く末を探し求める修行者が、目の前を行き交っているのだ。
 いまNHKの朝ドラで「たかし君」の発言を思い出した。「トビウオは海の中にいてもトビウオだからね」だ。パイロットを諦めて家業を応援する舞ちゃんに向かって言った言葉だ。空を憧れるトビウオは、地上にいてもトビウオのこころは失ってはいないという意味だろう。まあ果たして、トビウオは何を究極的に求めているのか。それは分からないのだが、こころに残った言葉だ。
 私も〈真実〉の奴隷にさせられているのだが、それが何のためなのかは皆目分からない。おそらくそのことの究極の意味は阿弥陀さんだけがご存じなのだろう。自分の眼は、「過去」しか見ることができない。「未来」には背を向けているので、眼で見ることはできない。ただ背中に感じるだけだ。見えているのは、「過去」以外ではない。