「生かされている」と「生きざるを得なくさせられている」の差異

「生かされている」と言う言葉を耳にすると、どこかで違和感を感じる自分がいる。この「生かされている」という表現そのものは、正しいに違いないのだ。これ以外に自分の、生きていることの〈真実〉を言い当てた言葉はないと思う。それでは、この表現のどこに私は違和感を感じたのか。
 おそらく、この「生かされている」の後に続く言葉を連想してしまい、それに違和感を感じるからではないか。つまり、「生かされている」ことを感謝しましょうとか、「生かされている」から有り難いと思いますとかいう言葉たちだ。「生かされている」は、〈真実〉であっても、それを人間が受け取ったときには、「感謝」となる。まあ、それを「感謝」として受け取っても仕方のない面もある。でも、それは自分にとって都合のよい状況が成り立っているという条件のもとでの「感謝」でしかない。自分に取って不都合な状況があるとき、「生かされている」は「感謝」に結びつかないだろいう。そうなってくると、「生かされている」は〈真実〉であっても、それを受け取る私は、損得根性で受け取ってしまっていることになる。おそらく、それが私に対して違和感を感じさせている正体ではないか。
 それで私は「生かされている」ではなくて、「生きざるを得なくさせられている」という表現の方が〈真実〉により近いのではないかと思う。それが自分にとって不都合だろうが、好都合だろうが、どちらにしても「生きざるを得なくさせられている」のだ。なんのために。それは分からない。もともと、私の生は「分からない」ということを出発点として始まっているのだから。