そういうことだったのか。私が見ている景色、つまり世界こそ「私そのもの」だったとは。なぜ天親菩薩は、「衆生世間」という言葉を使ったのか。まだ「器世間」という言葉は理解できる。私たちが生きている「器」が、そのまま「世間」だというのだから。大きな世界を「器」という譬喩で表したのだから。
しかし、「衆生」が「世間」だというのはどういう意味か。つまり、「主体」が「世界」だというのはちょっと頷けない。「主体」は「世界」の中にある存在であって、「世界」と同義語にはならない。
まあそれが私の中で、初めて、「見えているままの世界」が「私の世界」だと頷けた。いまの脳科学では、眼が見ているのではなく、眼で見ていると考える。眼は「見る」ための器官(仏教語では「根」)であって、眼が見るのではない。眼で何かを見るのだ。だから見ているのは「脳」であると。仏教では、「五官」を「五根」という。それを統合しているものを「意根(意識)」と言う。しかし、「意根」も器官ということになれば、「意根」が考えるのではなく、「意根」で考えるということになる。つまり、脳科学で言えば、脳が考えるのではなく、脳で考えるということになる。養老孟司さんには、「唯脳論」というテーマの本があり、すべては脳が司っているのだと言う。つまり、脳が考えているのだと。確かにそう言われればそういう見方もできる。
以前、吉本隆明さんが、こんなことを書いていた。事故で右足を失ったひとがいて、そのひとがあるとき、失ったはずの足裏が痒いから掻いてくれと訴えたというのだ。物理的には右足を失っているのだから、そこが痒いということは起こらないはずのに、そこが痒いというのは、脳内のある部分に「右足」が残っていて、そこが痒いのではないかと。私たちは、「五官」で外界と接しているが、それがそのまま脳内の部分を形成しているのかもしれない。「右足」も脳にとっては、「外界」なのだろう。仏教では、それを「境(artha、visaya等の訳語)」と呼ぶ。「眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根」という「六根」で受け取られた対象が、「色境・声境・香境・味境・触境・法境」という「六境」である。つまり、私たちは世界を、「六根」が受け取っているのではなく、「六境」として受け取っていることになる。
そしてこの「六境」が、そのままあなたの世界でもあると教える。私に「見る」ということが成り立つには、「見る対象」と距離がなくてはならない。対象と眼がくっついていたのでは、「見る」ということは成り立たない。だから対象との距離も含めて「見える」が成り立つのだ。決して見るための「眼球」だけで「見る」は成り立たない。まど・みちおさんの「けしき」という詩を思い出したが、ここでは触れないでおこう。
おそらく、私の考えているようなことを、以前、思想界ではん「共同主観」とか「間主観性」という言葉で言おうとしたのだろう。「見る」ということも主観と客観と分裂させることはできず、主観と客観との双方で成り立つ出来事だと現象だと言いたかったのだ。これは天親菩薩が「衆生世間」という言葉を直感したのと同じ問題意識だと思われる。(正確には「衆生世間清浄」で仏と菩薩という浄土の主体のことを問題にしているのだが)
ここまであれこれと書いてきて、ようやく「見えているままが、見えていないことの証明」と言い得る準備ができたように思う。普通は「見えているままが、見えていることの証明」と考える。それを引っ繰り返して、「見えていないことの証明」と言ってみた。「見えていない」という言い方は、誤解を受けそうだが、まあソシュールの言い方を援用すれば、「恣意的現実」のことである。「恣意的」とか「恣意性」というのは、人間が欲しいままに現実をねじ曲げて受け取っていると否定的に受け取られそうだが、そういうニュアンスはない。人間が、人間にとって、人間的にしか受け取ることのできない性質を「恣意」という言葉に込めているのだ。暗闇の中に光る二点を見ると、生き物の目として身構えてしまう本能が霊長類にはある。こういう特質を「恣意性」と受け取ることができる。
仏教で説く「生・老・病・死」も「恣意的現実」としてあるわけだ。だからこれらは、実に人間が、人間にとって、人間的にしか受け取れない特殊現象という意味である。これらは他の生物にはない現象なのだ。
これが「見えているままが、見えていないことの証明」である。まあ「見えていない」とは、〈ほんとう〉ではないという否定的なニュアンスを込めている。もし「見えているままが、見えていることの証明」だったら、人間に救いはない。親鸞が「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」(『歎異抄』後序)と言ったのは、「見えているままが、見えていないことの証明」という意味だ。親鸞に「まことあることなき」と言わせたものこそが、「まこと」である。「まこと」から、お前の受け取っている世界が、決して「まこと」ではないと否定されることで、よくやく、辛うじて新鮮な「まこと」の息吹を呼吸をすることができる。