ふと、手を見た。さらに指を見た。指には指紋があった。よく見ると、美しい波模様だ。眼鏡を掛けると、波模様がより鮮明に、美しく見えた。同じような波模様だけれど、これは一つ一つ違っていて、さらに一人ひとり違っているのだそうだ。だから、「指紋認証」というような、本人確定装置が生まれた。警察官に捕まったとき、指紋を押させられたのも、そういう意味があってのことだ。
この指紋、どれ一つも、自分が作ったものではない。自分の作ったものではないから、「自分のもの」ではない。そうすると、指は手にあり、手は腕にあり、腕は体にあり、どんどんつながっていて、この体全体が、「自分のもの」ではないと、改めて知らされる。
「自分のもの」ではないのに、自分はこの体を「自分のもの」だと思っている。老化とは、初めて、この体は「自分のもの」ではないと知らされる切っ掛けだ。
それは何のために。それは、人間には知らされていないのだろう。ただ、「自分のもの」ではないということが、〈真実〉だということだけは分かる。人間は、何でもかんでも、すべてを「人知」で覆い尽くしてしまうから、「人知」で圧迫され窒息させられているようだ。
「人知」は〈真実〉という水面を覆う、油膜のようだ。油膜が水面全体を覆い尽くすと、そこは油だけの海のように見えてしまう。そこに石を投げ込んでみれば、それが油膜だったと、初めて分かる。でもそれは一瞬のことで、波紋が消えれば、またそこは油の海に舞い戻りだ。
どうも親鸞のいう、「火宅無常の世界、よろずのことみなもってそらごとたわごと」(『歎異抄』後序)とは、油の海のことらしい。その下に「ただ念仏のみぞまこと」が広がっているだけだ。ただ、「ただ念仏のみぞまこと」などと言ってみたところで、誰もそんなものを見たことがない。これも「人知」の罠で、「そらごとたわごと」と「念仏のみぞまこと」を並べると、あたかも二つのものがあるように感じてしまう。でも、二つに並べたら、もうそれは「人知」のテーブルだから、そこには〈真実〉はない。二つに並べたら、必ず「比べる」ことになる。「人知」の中では、念仏は「好ましいこと」、「そらごとたわごと」は「好ましくないこと」と比べて価値づける。そう意識してはいなくても、二つに並べた段階で、すでに比べているのだ。問題は、そのテーブルそのものなのだ。
この世の、あらゆることが「そらごとたわごと」だと教えられる。つまりは「娑婆事」だと。「娑婆事」以外にはないのだと。それと別に〈真実〉があるわけではない。ただ「娑婆事」と教えてくるもの、本当に大切なことはそこにはないと教えてくるもの。しかし、それが何だとは決して「人知」ではつかめないもの。
それは「空」なんだ、「空洞」なんだ。自分の真ん中に、大きな「空洞」ができた。「空洞」だから、自分が決して所有することができない。「空洞」の中をあらゆるものが通過していく。ただ「空洞」が在るのだが、「空洞」だから、本当は無いのだ。無いことが在るのだ。〈真実〉とは、そんなイメージだ。