苦しみは「思い」の中にしか住めない

仏教は、「苦しみ」の分析に始まる。仏教の基礎的教義として有名なのは「三法印」である。この「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」に加えられたものが、「一切皆苦」である。それで、「三法印」とか「四法印」と呼ぶようになった。
『岩波仏教辞典』の「一切皆苦」の解説には、こうある。「仏教は苦を、苦苦、壊苦、行苦の3種に分けて説明する。〈苦苦〉は肉体的苦痛を、〈壊苦〉は損失による精神的苦痛を表し、一般に用いる苦の意味に最も近い。一方、仏教は生まれたままの自然状態、すなわち凡夫の状態は迷いの中にある苦としての存在と捉え、そこから脱却して初めて涅槃という楽に至ると考えて、この迷いのありさまを〈行苦〉と表現する。」などとある。
 その分析の中から「四苦八苦」という言葉も生まれてくる。この解説も見ておこう。
「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称で、原始経典以来説かれる。〈四苦〉とは、生(生まれること)・老・病・死で、これに怨憎会苦(憎い者と会う苦)、愛別離苦(愛する者と別れる苦)、求不得苦(不老や不死を求めても得られない苦、あるいは物質的な欲望が満たされない苦)、五取蘊苦(五盛陰苦・五陰盛苦とも。現実を構成する五つの要素、すなわち迷いの世界として存在する一切は苦であるということ)を加えて〈八苦〉となる。(以下略)」
 これは人間をよく観察したところから見出された存在分析だろう。要約すれば、自分の「思い通りにならない状況」を人間は「苦」と感じ、そこからの解放が仏教の課題となった。
 そこで曇鸞は、こう言う。「苦を抜くを慈と曰う。楽を与うるを悲と曰う。慈に依るがゆえに一切衆生の苦を抜く。悲に依るがゆえに無安衆生心を遠離せり。」と。
 菩薩の課題とされる「慈悲」を「抜苦与楽」と示す。「慈によって苦を抜き、悲によって楽(安心)を与える」と。しかし、人間の「思い通りにする」ことで「苦」を解消するとは言わない。曇鸞は「慈悲」を「小悲・中悲・大悲」と分けて、「小悲・中悲」は条件を変えることで楽を与える慈悲だが、「大悲」は無条件に楽を与えるものだと言う。「無条件」ということは、人間の要求に応える形での、つまり「思い通りにする」ことで楽を与えることではない。むしろ、いかなる条件の変更をすることもなく、それであっても楽を与えようとすることである。
 そんなことが可能だろうか。しかし、それを突き詰めてみれば、こういうことになるのではないか。
 人間が煩悩存在であるならば、必ず「苦」を感じる生き物である。煩悩は「貪欲」だから、自分の思い通りの状況を貪ろうとする本性を持っている。しかし、人間はつねに限界状況を生きているので、思い通りにならない現実がある。だから、「思い(煩悩)」は必ず「苦」を感じざるを得ない。それを感じないようにするには、煩悩が機能しないようにするしかない。つまり、肉体の消滅だ。しかし、それでは、条件変更になるので「小悲・中悲」のやり方になってしまう。「大悲」は無条件だから、そういう解放の仕方ではない。
 それではどうやって、「苦」を超えるのか。それは「苦」は「思い」の領域にしかないと諦念することではないか。「苦」が住める場所は、「思い(煩悩)」の中にしかないという諦めだ。相変わらず「苦」はあるのだ。「苦」があるということが、煩悩が健康にはたらいている証拠だ。
 だが、その「苦」と「〈真実〉の自己」とを棲み分けることだ。自己は苦しむのだが、「苦」と自己とは一体にならない。一体になってしまうと、「苦」に足を取られてしまい、もんどり打って「苦」と共倒れになってしまう。だから、棲み分けだ。譬えれば、自己の一部分が苦しんでいるのであって、自己全体が苦しんでいるのではない。いままで、「苦」と自己が溶け合って、一体になってしまっていたものが、ハッキリと分離され、住む世界が分けられた。それが「無縁の慈悲」ではないか。
 奇しくも「〈真実〉の自己」との棲み分けと書いてしまった。これは親鸞が、「往生と言うは、『大経』には「皆受自然虚無之身無極之体」と言えり」(『教行信証』真仏土巻)に引っ張られた観念だ。この「虚無之身、無極之体」を私は「〈真実〉の自己」と直感したのだ。親鸞は、「往生」というのは、死んで浄土に往くことでも、また地獄に往くことでもないと考えていたのだろう。「往生」とは、自分が「虚無之身、無極之体」だと明らかに知ることだと。「虚無」とか「無極」とは、自己が皮膚で閉じられた肉体だという意識が解体された状態である。まあ私の言葉で言えば、〈一人一世界〉である。だから、「〈真実〉の自己」とは、自分の思いでは計り知ることができない。これが「〈真実〉の自己」である。
 改めて言おう。「苦」は「思い」の中にしか住めないものであって、「〈真実〉の自己」とは無関係の出来事であると。そう考えれば、「苦」で覆われていた自己が、ようやく息を吸うことができるだろう。「苦」は自己の一部分であって、自己全体を覆えるものではない。