〈真・宗〉は、人間の「思い込み」が解体される喜びだとお話していたら、「なぜ解体が喜びにつながるのか?」と問われた。改めて、その問いを自分自身に突き付けてみた。
まず、この「喜び」とは欲界の喜びではないということだ。欲界の喜びは、自分の貪欲の喜びだから、貪欲内的喜びとなる。つまり、自分の欲が思い通りに叶った喜びであり、あるいは、自分の思いを超えて願いが叶った時の喜びであろう。「喜び」と「楽しみ」は多少違うが、曇鸞は「楽」を三つに分析している。
一つ目が「外楽」。これは「五識所生の楽」と言っている。「五識」とは、「五根(眼・耳・舌・身・意)」のことで、この感覚器官で感じられる喜びだ。まあ私の言う「欲界内的喜」びだ。「眼」は、綺麗なものを見たときの喜び、「耳」は、心地のよい音楽を聴いたときの喜び、「舌」は、美味しいものを食べたときの喜び、「身」は、マッサージをされたときの快感、「意」は、思い通りにことが運んだときの喜びである。
二つ目は、「内楽」で、「初禅・二禅・三禅の意識所生の楽」だと定義している。これは「禅」といって、意識が瞑想状態に入った時の楽しみを言っているらしい。これはオウム真理教の修行段階で語られていたことを思い出す。表層段階の意識が鎮まり、身体が深い瞑想状態に入る喜びで、これはセックス以上の快楽なのだそうだ。
三つ目が曇鸞の言いたい「喜び」で、それを「法楽楽」という。いわば、「法楽の楽」だ。これは「智慧所生の楽」と言い、「この智慧所生の楽は、仏の功徳を愛するより起これり。これは遠離我心と、遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。妙の言はそれ好なり。この楽は仏を縁じて生ずるをもってのゆえに。勝の言は三界の中の楽に勝出せり。真の言は虚偽ならず、転倒せざるなり。」(『教行信証』証巻)
これを意訳してみたい。「この智慧から生まれる喜びとは、阿弥陀さんのはたらきを愛するところから起こる。これは自己中心の意識と、自分を不安にする意識と、自分を最優先に優遇しようとする意識とが対象化され、それらが美しい鏡に映されるようにハッキリ見えてくることである。これらをまとめて「妙楽勝真心」と名づけた。「妙」とは、超越的な、という意味であり、「楽」は、阿弥陀さんの促しから起こるもの、という意味なのだ。「勝」も、この世の相対的な世界で感じる「楽」を超越していることを表している。「真」は、〈真実〉の意味であり、それは「虚偽」を「虚偽」として見出させる眼であり、「転倒」、すなわち、人間が「固定観念」に躓いて倒れそうになることから身を遠ざけるのだ。」
そもそも「仏の功徳を愛するより起これり。」が最初の定義だが、これは結論ではないか。「仏の功徳」とは、我々の「思い込み」を解体するはたらきのことだから、それを愛することから生まれるということは、解体されたところから始まると言っているのだ。つまり、「思い込み」がを〈真実〉だと錯覚してたことが暴露されたということだ。
人間が「現実」だと思っているものは、すべて「思い込み」(恣意的現実)に過ぎないと、一刀両断にされることだ。それがなぜ「喜び」になるかと言えば、我々が「思い込み」で苦しんでいるからだ。「思い込み」が〈真実〉であるならば、苦しみは起こらない。しかし、「思い込み」は〈真実〉ではないから、必ず苦しみを生む。苦しみが、どこにあるのかと言えば、それは「思い」の世界、つまり「思い込み」の世界だ。
そうやって一刀両断にされたことで、〈真実〉があらわになる。スカッと一刀両断にされると、痛みは感じないのだ。スカッと晴れやかに、「思い込み」と〈真実〉とが切り分けられる。これが「法楽楽」なのだろう。
曇鸞は、それを更に解釈して、「これは遠離我心と、遠離自供養心と、この三種の心、清浄に増進して、略して妙楽勝真心とす。」と言う。ここには「三種」とあるが、正確には「遠離我心貪着自身、遠離無安衆生心、遠離供養恭敬自身心」である。訳せば、「我心が自身に貪着することを離れる」、「衆生を不安にするこころを離れる」、「自身を供養し恭敬するこころを離れる」となろう。一言で言えば「我執を離れる」ということだ。
これは「我執」を消滅させることではないだろう。「我執」を消滅させるのは肉体の死以外にない。そうではなくて、「我執」の本質を見破ったということだ。それが「遠離」という意味だ。「遠離」とは、「いままで自分に、あまりに近くにあって見ることもできなかったものが、それを遠くに離して見ることができるようになる」ということだ。
離れて見れば、「思い込み」に巻き込まれずに苦しみから解放される。「思い込み」は、決して指一本も〈真実〉には触れ得ない。そのように離れて見えることが「喜び」なのだ。