今朝、テレビを見ていたら、自然番組で北海道の鮭の産卵シーンを放映していた。これは何度かテレビで見ていたので、それほど珍しいシーンではなかった。鮭が自分の生まれた川に戻れるのは、体内に磁気センサーがあるとか、匂いで嗅ぎ分けているとか、いろいろな説があるそうだ。
鮭のお母さんもお父さんも、大きな口をいっぱい開けて、一生懸命産卵と放精を行っていた。見ると、体のあちこちが白く変色して劣化していた。腹びれや尾びれも、切れて千切れている。おそらく、この場所にたどり着くまで、川の石にスレたり擦れたりしながら、疲労困憊して、ここまでたどり着いたのだろう。もう人間だったら、ここにたどり着くだけで精一杯だろう。しかし、鮭のお父さんとお母さんは、そこからさらに、最後の力を振り絞り、精一杯の力で産卵をしていた。
それを見ていたら、私の中で、私をここまで育ててくれた両親の姿が鮭に重なって見えた。どれほどの苦労をして私を育ててくれたものだろうか。体が劣化して朽ちようとしている、鮭が哀れに感じられた。しかし、その思いはそれに留まらなかった。この朽ちようとしている鮭が、我々夫婦にも思えたからだ。我々がどれほどの苦労で子どもを育ててきたか。それは子どもには言えないけれども、振り返って見れば、大変なことがたくさんあったと、しみじみと思われた。まあそれすらも、いまはすっかり忘れてしまっているのだから面白い。
どんな苦労も、どんな喜びも、すべては、「何ともない」という〈いま〉に解消されてしまう。〈いま〉は、常に零度なんだ。
蛇足ながら付け加えれば、この鮭が、我々すべてを養育して下さる阿弥陀さんの姿でもあるのだと思えてきた。