寺報「よびごえ」133号・巻頭言
「若い頃は、「如何に生きるか」ということが発想の原点になっていたように思う。でも、近頃は「如何に死ねるか」に変わっている。そして、これは人生が、「行き道」ではなく、「帰り道」として見えてきたということでもある。「行き道」であれば、目的地は未来にあり、そこを目指すという志向になる。この志向は、未だに行ったことのない目的地を目指すのだから、ワクワク感もあるが、どうしても不安が残る。でも、「帰り道」となるとどうだろう。そこは、自分がもともと居た場所であり、そこへ帰るのだから、懐かしさと共に安心感も生まれるだろう。ところが、親鸞は「苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の淨土はこいしからず」(『歎異抄』)と言う。苦しんでいる場所を捨てたいと思っても捨てきれず、そこがむしろ「故郷」であり、未だに往ったことのない淨土は恋しいとも思わないと。そう感じさせるのは煩悩だと。煩悩は淨土を、苦の娑婆から遠く隔たっていると感じさせる。むしろ淨土とは、この苦悩の娑婆の地中にこそ埋まっているのではないか。淨土は、苦の娑婆を下支えし、苦の娑婆を悲愛の眼でご覧になっている阿弥陀さんの眼だ。苦の娑婆こそ「異郷」であり、私の居るところこそ「故郷」だと叫んで。」