自分は、「自分」とどんな人間関係を結んでいるのだろう。ひとは他者と関係しなければ生きられない生き物だ。だから、「人間関係」という言葉も生まれた。集団生活をするようになった人間は、お互いを助け合うということで辛うじていのちをつないでいる。ただ、集団生活が互助で動いているうちはよいが、それが逆に圧迫となることもある。現代人の抱えるストレスの八割は、対人関係が原因だとも言われるのも、集団生活に起因している。
仏教は、そのストレスを「四苦八苦」の五番目である「愛別離苦」と六番目の「怨憎会苦」七番目の「求不得苦」でまとめている。愛し合っているものと別れねばならない苦しみと、会いたくない人間に会ってストレスを感じる苦しみ、求めている相手が得られない苦しみだ。
その苦しみを阿弥陀さんはどうやって救うのかと言えば、人間の思いを叶えることで救うのではない。苦しんでいるものに成り代わって、苦を引き受ける形で救う。病気であれば、病気を取り去ることで救うのではなく、病気で苦しむ身に阿弥陀さんが成り代わって救うのである。つまり、現状を変えて救うのではなく、現状を引き受けることで救うのだ。
人間が欲しいのは現状の改善のみだ。つまり病気の平癒、貧困の改善、ストレスを引き起こす相手の抹消だ。だから、人間は阿弥陀さんの救いなどを要求してはいない。阿弥陀さんの救いは、「無条件」だから、そのままの救いである。いかなる現状変更もせずに、そのまま救うわけだ。だから、人間にとっては、それが「救い」だとはとても受け入れられない。
それを受け入れるには、阿弥陀さんのご苦労への謝念がなければならない。阿弥陀さんが自分に成りかわって苦を引き受けて下さるのだから、「申し訳ない」という謝罪だ。しかし、阿弥陀さんはその謝罪をそのままお受けにならない。むしろ、阿弥陀さんが私に頭を下げ謝罪される。私の救済力が弱いばかりに、あなたにご苦労をさせて済まないと。その阿弥陀さんが私を救おうと関わって下さるのが、私に成り代わって苦を引き受けるという方法なのだ。
なんだか、これだと、キリスト教のいう「イエスの代受苦」に似ている。それと阿弥陀さんの代受苦はどう違うのか。それはイエスが「観念」であるのに対して、阿弥陀さんは、自分の「身体」であるという違いだ。阿弥陀さんとは、この「身体」のことだ。「自分」という思いにどこまでも同伴し、決して離れることがない。『成唯識論』にも、「摂為自体 同安危故(摂して自体と為って、安危を同じくするが故に)とあって、阿頼耶識は、「身体(有根身・種子)」を自己自身としておさめ取り、安心なときも危険なときも一心同体となって下っているという。まあ阿頼耶識とは、阿弥陀さんの別名でる。
しかし、自分の身体は自分の所有物であって、とてもこれが自分を超えた阿弥陀さんだとは思えないのだ。だから、そこには対話は生まれない。自分の身体を自分自身だと無自覚に思っているから。ところが自分自身の身体は「自分」ではないのだ。これは阿弥陀さんであって、自分の思いとは異質なものである。
そこまで来ると、阿弥陀さんと自分との対話が生まれる。自分は「自分」とどんな人間関係を結んでいるだろうと冒頭に述べた。まさか、自分との人間関係などと聞いたことがないから、面食らう。でも、これが人間が生まれて初めて出会う人間関係なのだ。心理学では、そうは言わない。最初に出会うのは母であり、その母子一体感に亀裂が入り、そこから自己という意識が生まれるのだと。最初は1であり、その1が別れて2という意識が生まれると。
河合隼雄さんも、こう言っている。「人間にとっての最初の数というものは、1ではなくて、むしろ2ではないかと(ユングはー武田補記)述べている。つまり、1が1であるかぎり、われわれは「数」ということを意識するはずがなく、何らかの意味で最初の全体的なものに分割が生じてこそ「1」の概念も生じてくると考えられる。」(『昔話の深層』)
阿弥陀さんと自己は、当初、「1」だったので、対話は起こらない。「2」に分裂して初めて対話が生まれる。これが人間の原初の「人間関係」である。身体が阿弥陀さんであれば、「人間関係」というのは適切ではない。むしろ「人仏関係」と呼んだ方がよいのかも知れない。