必然として慶べない

親鸞は「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」と言っていて、それを安田理深先生は「つまり出遇ったという意味です。仏の本願力に遇うて空しく過ぐる者無しと。我々の方から言えば偶然だけれども、本願の方から言えば出遇うべくして出遇ったのです。時機到来したのです。外から見るから偶(たまたま)というのだけれども、内から見れば必然です。遇うというのは偶然のところに本当の必然がある。我々人間の理性というものは、何か偶然をやめて必然ばかり考えるのです。それを形式論理というのです。」(『親鸞における救済と自証』第5巻、p409)と述べている。
 しかし、自分に引き当ててみると、偶然以外にないのではないかと思える。「偶然のところに本当の必然がある」とは思えないのだ。
 翻って考えてみると、もし偶然を必然だと思えてしまったら、偶然の驚きは消えてしまうのではなかろうか。それで、偶然を決して必然だったと思わせないように、親鸞は「遠く宿縁を慶べ」と命令形で述べているのではなかろうか。偶然が必然だと思えてしまったら、そのことを慶んで終わってしまう。やはり、どこまでも慶べない存在に対して、「慶べ」と命じて下さるのではなかろうか。私からすれば、偶然以外にないのだ。それを必然のこととして「慶べ」と叫んでおられるのは、阿弥陀さんだけなのではなかろうか。