自分の中の、何を言い当てようとしているか

その経言の言葉が、私の何を表現しているのか。
私の中の何を表現しようとしているのか。
それが抜けてしまえばい、空理空論だ。仏教を学ぶ意味がない。

必ず、経言は、私の中の何かを言い当てようとしている。だから、その何かを、つまり、自分の実感のところで確かめなければならない。

親鸞の頭の中を彷徨い出すと、迷宮入りしてしまう。
そこは沼であり、魔界だ。
そこは親鸞だけが分かっている、あるいは親鸞すら分かっていない世界かも知れない。
「作品は常に作者を超えている」からだ。
「思い」を言葉化すると、必ず「思い」とはズレる。
だから、永遠に表現し続けることもできるのだ。

ズレとは、必ず「思い」と「表現」がズレることであり、そのズレから生まれた表現を、今度は自分の内面に取り込んで、親鸞の表現の真意を探っていっても、迷宮入りするばかりだ。
それは、親鸞の真意であるかないかを、確かめようがないからである。
また、たとえ、それが親鸞の真意だとして、それを知ったところで何の意味があるのか。
自分に実感できないような、経言は、すべて無意味である。

北海道の「ペテルの家」の「当事者研究」という言葉は素晴らしい。「当事者」とは、まさにこの世に二人といない自己自身のことであり、それを研究の課題とする。つまり、その意図は、まず「自分」とは自分にとって未知のものだという理解が前提となる。

自分とは、〈零度の存在〉だから。
このブラックホールは宇宙へと開かれる扉である。
なぜ「自分」という視座が与えられているのか。この視座を誰も奪うことはできない。
この視座を相対化してはならない。ひとと取り替えてはならない。
この視座の相対化を「愚痴」と言うのだろう。

しかし、この視座から実感できないようなものは、意味がない。それほどまでに、「自分」とは希少価値のあるものなのだ。
 親鸞も「正信偈」で、「明如来本誓応機(如来の本誓、機に応ぜることを明かす)」と言っている。
「応ぜる」とは、実感することだ。実感ができなければ、如来の存在意味はない。
如来の誓いを有意味とするか、無意味とするか、それは「機」である自分に懸かっている。