危ない言葉の断片

「往生した」からこそ、「往生していない〈いま〉」をいただける。
「往生した」という過去形は、「往生していない〈いま〉」を完成することが目的である。
「現生正定聚」が、「往生浄土」の完成形である。
未だに往生していないということが、往生が成り立ったことの証明となる。
だから、未だに往生していないことに満足できるのだ。
完成もしないのならば、現生正定聚は、一生、不満足になる。
だから、菩薩こそが、仏の完成形なのだ。
菩薩はいかにも仏を目指しているように見せておきながら、成らないことを楽しんでいるのだ。

この身は、浄土から来られた還相の菩薩だが、私は菩薩ではない。
私を救うためにやって来たのだ。
では、その私とは何か?
それは分からない。
教えられるところに感じられる何かだ。
「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしずみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身」と教えられるところにあるものだ。

この思いも言葉も超えている法性の自己を、「自分」だと傲慢にも思っている。
自己とは、阿弥陀さんの教え以外のところには成り立たない。
それが「我一心」だ。
如来回向でいただく何かだ。
それを「こころ」と言っても「身体」と言っても、表現したものを超えてしまう。
いただくものは、「空間・時間・主体」である。
「いま・ここ・私」だ。

欲界とは、利害損得の意味空間。
それを包んでいるのが、法性空間だ。
利害損得を超えるものが、〈真実〉というものだ。
利害損得では決して満たされないものを身は抱えているのだ。