〈真・宗〉内的天理教

 天理教の本部を見学してきた。ウワサ通りの凄さだった。本部に近づくに従って、寺院ふうの建物が、ドンドン眼に入ってくる。天理大学などの建物があり、聞くと高校も幼稚園も病院もある。ここは人間の一生が完結できる場所なのだそうだ。建物がすべて、統一したデザインになっていて、天理が宗教都市であることを実感させられる。宗教の名前が「市」の名前になっているのは、ここだけのような気がする。
 メインはなんと言っても、神殿を中心とした本部だ。広大な敷地に、神殿(なんと畳3157枚が敷き詰められている)、教祖殿、祖霊殿などの建物が建ち、ここに入るものを圧倒する。神殿は、「ぢば」という神さまが中山みきに降臨した場所を中心に建てられていた。ここから人類が誕生した聖地でもあり、四角くくり抜かれた空間に向かって、東西南北から礼拝できるような構造になっている。「おぢば」の中心には「かんろだい」という木製のモニュメントがあった。平仮名で書かれるのだが、無理に漢字にすれば、「地場」であり、「甘露台」だと思われる。信者は、これを中心にしてお参りをしている。ここから人類が創り出された場所なので、ここに参拝に来ることを、「おじばがえり」と呼んでいる。これも漢字に直せば、「御地場帰り」だろう。信者でなくても誰でもお参りできるのは、たとえ信者ではなくても、あなたはここから生まれたのだから、ここへ参拝に来るのは、「おじば」へ帰ってきたことになるという考えによる。だから必ず挨拶は「お帰りなさい」となる。初めて参拝に来たひとにも、「お帰りなさい」と挨拶されるのだから、こっちは面食らってしまう。まあ、挨拶一つを取っても、そこに天理教の意味空間を生きるのか、それともそれを拒否するのかという「選択」が突き付けられてくると、見るのは厳しすぎる見方だろうか。
 それにしても、356日24時間、お参りができるようになっているのは、さすがに凄いと思った。まあ正面ではなく別の場所から神殿に入るそうだが、深夜でもお参りするひとがいるというのだから、これも凄いことだ。コンビニと同じだというと馬鹿にしているように聞こえるが、そうではない。24時間、年中無休というのは、余程の覚悟がないとできないことだ。これも共同管理体制があるからできることで、個人経営の教会などでは難しいことではなかろうか。神さまは24時間体制であるのは間違いないが、それを人間がやろうとしたら、大変な努力だ。
 また、お参りの仕方が独特だった。「かぐらづとめ」といって、独特な「手踊り」でお勤めする。手のひらを上にしたり下にしたり、正座をしているだが、まるで正座をしながら盆踊りでも踊っているような感じだ。この「手踊り」をしながら、声を出す。我々で言えば「声明」だ。我々が、たまたま神殿に入ったとき、20人くらいの若者たちが、お勤めをしていた。、彼らは揃いのユニフォームを着ていた。黒装束に「天理教」と白地で書かれた法被(はっぴ)だ。下半身は黒のズボンらしきものを履き、法被を黒帯でキュッと締めていた。これは初期の頃、道路開拓をしたときに、信者が揃いの法被を着たのが始まりらしい。
 導師らしき一人が発声すると、それが合図なのだろう、皆が一斉にお勤めを始めた。何と言っているのか、耳をそばだてたら、「悪しきを祓うて、助けたまえ、転輪王のみこと」と聞こえてきた。お勤めはまだ続いていく。「悪しきを祓うて、助け急き込む、一列澄まして甘露台」(正しくは平仮名だが、それを漢字で表現してみた)。これを独特の音調とリズムで称えていく。要するに、神(転輪王)が、「中山みき」(教祖)という人間の体を借りて現れ、天地創造・人類創造の物語を語っていくのだ。この点が天理教を、「神道」でも「仏教」でもないと自己表明する所以なのだろう。「転輪王」と言えば、インド古来の神さまで、仏教辞典には「正義をもって世界を治める理想の王。〈法輪〉とは、戦車あるいは日輪を馳せるイメージに由来する言葉らしい。転輪聖王の転ずる輪に金・銀・銅・鉄の4種類があり、金輪王は四大洲のすべてを治め、鉄輪王は閻浮提のみを治める。〈転法輪〉はこの観念が仏陀の説法に応用されたもの。」などとあった。おそらく「中山みき」は浄土宗で専門的に学んだひとだから、そこでの知識があって、神が憑依したときに、これらの言葉を語ったものだと想像できる。
 これは「中山みき」本人の説なのか、その後、教団によって教義化されたものかは分からないが、このように言われている。まず、転輪王はこの世のあらゆるものを創った。当然、人間も創ったので、身体は神さまからの借り物だという。だから、「死」は神さまからお借りした身体を帰していくことで、魂は再び異なった身体に宿って誕生していくのだと考えているらしい。ところが身体は、神が創ったものだから、健全なものだが、心は違う。心は人間のものであって、だから「悪しきこと」も考えてしまう。仏教で言えば、「煩悩」だが、それを祓って、神の健全性へ改変していかねばならない。それが「みかぐらうた」の「悪しきを祓うて」という意味だろう。
 しかし、神さまは人間の愚かさなど、先刻ご承知であって、心の「悪しさ」に目覚め、それを清浄化していけば、そこに「陽気暮らし」という理想郷が生まれるのだと言う。人間が「悪しさ」に目覚めて「陽気暮らし」ができれば、神さまも一緒になって喜んでくださるというのだ。
 創造神話というものは、いろんな民族が持っていると言われるが、これは『聖書』の「創世記」とも似ていると思った。まず神様が「創った」という考え方が、西洋一神教と似ている。仏教は、「ある」とか「成る」という発想の仕方で、まず「創る」という発想はない。
 それにしても、日本における信者数は約200万人、全国の教会数は16,000だそうだから、確かに凄い宗教だ。
見学に行く前に、「おぢば」は正方形で、ご神体などはなく、底が深いと聞いていたので、どれだけ深いものだろうかと思っていたが、実際に見たところ、3メートルくらいで地面の床になっていて、ちょっとガッカリした。せめて、10メートルくらいは深さが欲しかった。欲を言えば、50メートルくらいは欲しい。つまり、上から覗き込んでも、暗黒になる程度の深さは欲しい。その方が神秘感が絶大に増すだろう。この底の「おぢば」から人類は生まれたのだと言う方が、説得力があると思った。
 実際には、正方形(縦横30メートルほどの広さか)の地面の中央には「かんろだい」というモニュメントが置かれている。これは木製らしく、タテは八尺二寸で、上部に三尺の大きさに作られた六角形の台が付いている。これは礼拝の目標(めど)であって、次のように天理教のホームページにあった。「人々の心が澄みきって、親神様の思し召し通りの『ようきづとめ』を勤めるとき、この台に、天から甘露(天の与え)が授けられます。これを頂くと、人は皆、病まず死なず弱らずに、115歳の定命を保ち、この世は陽気ぐらしの世界となる、と教えられています。また、かんろだいは、人間の創造と成人の理を表して形造られています。」と。
 やはり、天理教も〈真・宗〉内的天理教なので、〈真・宗〉と別の出来事ではない。天理教も阿弥陀さんの本願の一部を表現しているのだから、そこには「〈真実〉のフォルム」がある。それでなければ、人間は動かされない。人間が動くのには、そこに必ず、「〈真実〉のフォルム」があり、それに触れているからだ。親鸞が『教行信証』の化身土巻を書いたのは、そういう見方があるからだ。つまり、この世で起こるあらゆる現象を、〈真・宗〉の中に包み込んだのだ。一見すると〈真・宗〉とは異質な現象に見えるが、それを突き詰めてみると、〈真・宗〉の内部のことだと分かる。親鸞であれば、天理教は第19願・20願の世界だと考えただろう。
「悪しきを祓え」というのは、「廃悪修善」であり、親鸞はこんなふうに言っている。「常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆえに。散心行じがたし、廃悪修善のゆえに。ここをもって立相住心なお成じがたきゆえに、『たとい千年の寿を尽くすとも法眼未だかつて開けず』(定善義)と言えり。」と。
 「定心」とは、瞑想して真実を観想することだが、それは煩悩を廃することだから不可能であり、かといって「散心」で道徳的な善をしようと心掛けても、それはもともと悪に染まっている者だから不可能だと言っている。それで、「立相住心」と言って、相(対象)を立てて、そこに心を集注しようとしても不可能であって、たとえ千年間励んだとしても、真実を見る眼は開けないのだと。
 ここに三つの「難」が説かれている。「修し難し」「行じ難し」「成じ難き」とある。この「難」はディフィカルトの「難」でなく、インポッシブルの「難」である。この「難」は人間のあらゆる努力精進を解体する。つまり、阿弥陀さんから回向された「難」である。この「難」に出遇うことが絶望ではなく、救済だというのが親鸞の本心だ。
「難」という刀で、人間の努力心(自力)をたたき切ってもらうことによって、初めて「人間」は人間の座に着くことができる。仏の座と人間の座を峻厳に分けてもらうことで、仏と対面させる。つまり、「普通のひと」に還ることができる。
 このたたき切られたところが、天理教で言いたいところの、「ぢば」である。〈真・宗〉で翻訳すれば、この「ぢば」は、地理上の天理市に限定できない。自分の居場所そのものが「ぢば」だ。だから自分と分離したところにはない。自分が動けば「ぢば」も動く。天理教で言いたいところの「ぢば」を、〈真・宗〉で解釈すれば、このようになるだろう。
 しかし、それだからと言って、「ぢば」を人間が見ることはできない。もし見えたら、それはこの世の世界のことになってしまう。だから「ぢば」は決して見えない、ブラックホールだ。この世のことがすべて吸い込まれ、飲み込まれていく場所だ。私の言葉で言えば、それは〈存在の零度〉だ。「弥陀成仏のこのかたは」で始まり、「弥陀成仏のこのかたは」で終わる場所だ。これが第18願の世界なのである。