昨日、母の本葬を終えた。密通夜、密葬に始まり、昨日まで、毎日がお通夜のような状態だった。そういうこともあってか、なかなか日が経たなかった。本葬の日は決まっているのだが、なかなか本葬の日がやってこないという感じだった。
しかし、その日が当日になると、あっという間に本葬は過ぎていった。後に残るものは残務整理だ。
まあいずれにしても、これは「娑婆事」だと思わされた。葬儀を「娑婆事」と思わせたものがあった。それは母の葬儀をおこなうのだから、母が儀式の主体のはずだが、そこに母はいなかった。ただ、祭壇をどうするか、返礼品をどうするか、テントを張るか張らないか、皆さんへのご案内をどうするか、などなど、様々なことを、事細かに決めていかなければならない。それらを決めるときに、どこを向いて決めているのかと言えば、会葬者だ。つまり、すべての関心は、「生きている人間」の方だけを向いているのだ。そこには母はいなかった。
どれだけ盛大な儀式を設えても、主人公であるはずの母はいない。
母がいないのだから、そこでおこなわれるすべてのことが、「娑婆事」だと感じたのだ。
しかし、それでは「娑婆事」ではない、本当の葬儀とは何かと、そこから問われてきた。
それはひたすら、いまは亡き母に集中して、そのことだけを想うことだろう。そうやって想ってみると、またそのことから問われてくるものがあった。それは、どれほど母を想ってみても、その思いそのものは「私の中の母」を出ることがないではないかと。「母の人生とは何だったのだろうか」と問うてみても、また「母は幸せな人生を送ったのだろうか」と思ってみても、すべては「思いの中の母」を私が評価しているに過ぎない。こうなってくると、これも「娑婆事」ではないのか。
そこには「本当の母」はいない。
百人のひとに、母について語ってもらえば、百の母が出てくるはずだ。「あなたは、そういうお母さんしか知らないでしょうが、こういう面もあったのですよ」という意見もあるはすだ。どれもこれも、それはその方がご覧になった母の断片であって、それは母の全体ではない。仮に百の意見を集めて総合してみても、それが母そのものではないはずだ。
こうなると、「本当の母」と私は出会ってはいないのだと思った。自分の知っている母以外の母とは出会ってこなかったのだ。更に、そこから、「本当の母」とは何かという問いが起こってきた。しかし、それをいくら問い詰めてみても、「本当の母」を知ることはできないのだ。なぜなら、それは阿弥陀さんだけがご存じのことだから。人間の私には知らされていないことなのだ。そうやって母を阿弥陀さんにお返ししていかなければならない。
母を考えるということは、実は自分を考えることになっている。母をどう思うかという、その「思い」そのものが私なのだから、私以外のことを私は考えることができない。
この「思い」をも、阿弥陀さんにお返ししていかなければならない。どんなことを思おうと、それがすべて阿弥陀さんへのお供えになればよいのだろう。この「思い」をお供えすることが法要の要なのだろう。そして自分には何もなくなれば、それでよいのだろう。