善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい

島根県大田市の本願寺派の研修会へ行ってきた。お話にはいろんな反応があったが、私の中で煎じ詰めると、「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という表現の意味するところは何か、に収まるように感じた。この表現は、現代で流行している「事後責任」と、まっこうから対立する言葉のように感じられるからだろう。
 私も誤解を解くために、あれこれと説明しなければならなかった。しかし、本当は説明したら、もうダメなのだ。説明したら、それは二次的な表現になったしまうので、それではダメなのだ。説明して納得してもらっても、そこには真はない。この表現を見て、「その通り!」と頷くかどうかだ。ただ、そこに「信」がある。
 まあ、ダメであっても、一応、お答えする立場に立たされているから、あれこれと説明した。これは人間の、表層のことではなく、深層で成り立つ表現なのだと。
 表層のことであれば、こんな表現は成り立たない。善いことも悪いことも、すべて阿弥陀さんのせいだったら、どんなに悪いことをしても許されてしまうではないかと。そんな倫理を無視するようなことが、どうして言えるのかと批判される。人間が自分のしたことに責任を持たなければ、社会というものは成り立たないのだと説教されそうだ。
 それは表層のことであれば、間違いのない表現だ。しかし、それが深層のことになると、そうは言えないのだ。涅槃経の阿闍世が、それを示している。阿闍世は、「親殺し」という自分の罪を正当化しようとする作為に挫折し、また自分の犯した罪の重さに喘ぎ心身症にまでなった、その底でお釈迦さんの謝罪に会うのだ。「お前に罪があるなら、私にも罪がある。むしろ、お前が罪を犯した原因は私にあるのだ」と謝罪する。その謝罪に会うことで、阿闍世は翻身した。
 つまり、その翻身を通して、初めて、「善いことも悪いことも すべて阿弥陀さんのせい」という大地に降りたのだ。それは「自分」というものがないことを知り、「自分」という主体を阿弥陀さんに明け渡したのだ。明け渡してみれば、今まで自分のしてきた行為がすべて阿弥陀さんのなさしめた行為だと受け取れたのだ。そこまで深層に降り立ったとき、初めて、阿闍世は人類の罪の大地に立ったのだ。そこで、初めて「罪の人間」として誕生したのだ。すべては阿弥陀さんのせいだと言って、その罪から逃れたのではない。逆である。阿弥陀さんのせいだと言って、罪と初めて一体化したのだ。
 罪は〈一切衆生人〉の罪なのである。表層の反省は、「慚愧」と呼ばれる。「慚愧」を世間では称賛するが、それは深層段階では、逆に傲慢なことなのだ。「慚愧」とは、罪の反省であるけれども、それは罪を帳消しにしようとする偽善のこころだからだ。帳消しにして、罪のない自分になろうとする思い上がりだ。深層では、「慚愧」が批判される。「慚愧」ではダメで、「懺悔」まで降りていかねばならない。
 そこまで行かなければ、罪が単なる個人の罪の段階で止まってしまう。個人の罪の段階を打ち破って、人類の、そして〈一切衆生人〉の罪の段階まで降りて行かねばならない。それを阿闍世は「無根の信」と表現している。つまり、「救い」というものを放棄した潔さだ。放棄して、罪の大地に降り立ったのだ。ここが我々の帰るべき大地だ。
 そう思わされた法座だった。