「弔意」をめぐって

皆さんの弔問を受けて、改めて、「百人のひとには、百人の母がいたのだ」と思わされている。「この度のお母様のご逝去、誠にお寂しいことでございました」、とか「悲しみに沈んでおられましょうね」とか、「立ち直るには、時間がかかりますよね」とか。様々な反応を弔問客がされていく。
 我々は、「ご弔問有り難うございます」と感謝をする。それ以外にご弔問の方々への感謝の言葉はない。しかし、皆さんの言葉を聞いていて思うのは、「母を亡くす」ということを、皆さん一人ひとりの「意味空間」で受け取られているということだ。つまり、もし自分が母を亡くす、あるいは亡くしたとしたら、おそらくあなたのこころの中には、こういう感情が湧いているはずではないかと推測され、そこから弔問の言葉が生まれているということだ。
 「母を亡くす」ということを、自分に引き当てて反応する以外に、人間にはやりようがない。しかし、自分に引き当てて反応したことが、誰にでも当てはまるかと言われれば、それは難しい。「お寂しいですよね」と言われても、当事者はそうは感じていない場合もあるからだ。「寂しい」と感じてはいても、当事者である身内一人ひとりに聞いてみれば、寂しさにも微妙な違いがあるかも知れない。
 ただ、その自分の感じ方を、他者に強要することだけは間違いだと思う。自分が悲しいのだから、身内が悲しいのは当然だろう、もし身内がそう感じていないのならば、それは「非人情」だと非難することだけはしたくない。しかし、人間は、自分に引き当ててすべてを受け取る生き物だから、ついついそういう間違いを犯してしまう。自分の感じ方が、絶対に正しいと思い込み、他者が違った感じ方をすることを許さないのだ。
 9月27日におこなわれた安倍晋三元総理の「国葬」でも、そのことが問題視された。全国民への「弔意の強要」は権力の横暴ではないかと。まあそこにも複雑な問題がある。もし天皇の「国葬」であれば、このような問題は見えなかったのではなかろうか。まして「弔意の強要」だとして批判されただろうか。逆に、天皇に対して「弔意」を感じないものは、「非国民」だと非難したくなる感情が湧いてきはしないだろうか。そのとき、我々は何に対してアイデンティティーを感じているかが暴き出されてくる。
 我々真宗門徒は、「天皇」を超越した阿弥陀さんを宇宙の中心に据えているから、そういうことが「問題」として見えてしまうのだ。我々真宗門徒にとっては、「国家の元首」であろうと、「天皇」であろうと、「煩悩具足の凡夫」のひとりであると見えてしまう。「煩悩具足の凡夫」が、仮に「国家の元首」であり、あるいは「天皇」という役割を演じているだけのことなのである。それは何も、「国家の元首」や「天皇」を尊敬しないということでは、まったくない。我々は、日本という「共同幻想」の内部で暮らしているのだから、この「共同幻想」の内側で感じられる範囲内での「尊敬の念」は感じてもおかしくはない。蓮如が「王法は額にあてよ。仏法は内心に深く蓄えよ」(『蓮如上人御一代記聞書』)と言ったのは、その程度のことだろう。蓮如は「王法」と「仏法」を二つ並べて、「王法」よりも「仏法」を重んぜよと言ったわけではない。「仏法」によって、「王法」を完膚なきまでに「相対化」せよと言ったのだ。あくまで、「王法」は、「仏法」内部の「そらごと、たわごと」程度のことであると。何も、「仏法」を重んじているひとは、「王法」、つまり「政治」的矛盾に唯々諾々と従えと言っているわけではない。言えば、「王法」とは「緊急の課題」であり、「仏法」とは「永遠の課題」である。まあこの言い方も、吉本隆明さん特有の言い方だけれども。
 いずれにしても、「弔意」とは、「面々の御はからい」(『歎異抄』第二条)の内部のことである。やはり、この世は〈私一人〉を教育する阿弥陀さんの学校なので、自分のと対面していくこと以外に、亡き人を尊ぶ接点はない。自分が「死」を、もっと突き詰めれば、「自分の死」をどう受け取るかということ以外に、他者の「死」を受け止めるアンテナはないのだ。