九月二十七日、午前十時半から、母(武田幸子)の密葬儀をおこなった。家族・親戚・世話人など、十数名が参集した。式の最後に、棺の中にいる母へ「花入れ」というものをする。手渡れた花束を、みんな、思い思いに棺に入れていく。見る見る花たちに囲まれていく母は、花で埋もれていき、紫の着物姿も坊守袈裟も見えなくなる。そして最後に顔だけが、微かに見えるようになる。花に囲まれるまでの母は、遺体であっても、まだ「生」の側にあったが、いよいよ花に囲まれてしまうと、本当に「死」の側に逝ったのだと実感させられ、涙がこぼれそうになった。
亡くなる日の朝、もはやいのちが終わろうとするとき、口では何も言えなかったけれども、耳元で、「定光、来たよ!定光、来たよ!」と声を掛けると、握らせた手の中で、小生の指を、微かな力で、ギューッ、ギューッ、ギューッと握り返してきた。あの微かな力の感触が、いまだに指に残っていて忘れられない。口では何も言えなくても、耳は最期まで聞こえていて、それに対して反応してくれたのだ。このギューッ、ギューッは、「分かったよ」という合図なのか、「ありがとう」なのか、「安心したよ」なのか、それは分からない。いや、そのいずれでもあったように思えた。
火葬場の、火葬炉の扉が閉まろうとするとき、小生は思わず、「ありがとう!」と叫んでしまった。この言葉以外には、込み上げてくる言葉はなかった。
母の九十四歳七ヶ月の生涯が、ここに閉じたのであった。
一日経ってみると、果たして、母の一生とは何だったのかと、改めて、問いが浮かんできた。それと同時に、母の一生を考えている自分自身にも目が向いてきた。必ず、一生を店じまいしていく時が来るのだ。この自分の一生のいただきと、母の一生のいただきとは、同時に解明されるものだと思えた。
仏さまと成った母は、そうやって私に取り憑いて、私と一緒に生きていくのだとも思えた。こっちが忘れていても、向こうが忘れないという、この感触が、正信偈で「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」(煩悩、眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲もの憂きことなく、常に我を照らしたもう)と親鸞に言わせたのではないか。たとえこっちが忘れ呆けていても、大悲は忘れない。逆に言えば、これは大悲を忘れることの安心感から、生まれたのだ。これが「まかせる」という「南無」の世界なのだろう。
仏と成った母は、どこにいるのかと言えば、常に私の目の前だ。「いま・ここ・私」と決して離れない場所だ。そして、母に取り憑かれた私は、母の言いなりになって、いのちを終えていく。「生きる」ということは、「いのちを終えていくこと」以外にはないのだ。これが不幸なのか、あるいは幸せなのか、そんな関心からも完全に救ってくれるのが、仏と成った母だ。人間の出す、あらゆる「結論」を解体し、「いま・ここ・私」を、つねに「未知」なる場所に連れ戻して下さる。これこそが、仏と成った母の、最大の御利益だ。やはり母は、常に子どもを超えている。
親鸞も、幼くして亡くした母を、このようにいただいていたのではないか。狭い自分の経験を通して、このように味わわせていただいたことであった。