二〇二二年九月二十二日、午後二時に母は逝った。九十四歳七ヶ月だった。二十二日の朝、五時半に施設から連絡が入り、会いに行った。その時は、耳元で声を掛けると、小生の指を握り返す力が微かに残っていた。小生の名前を呼びかけると、指をギューッギューッと、握り返した。その時は、まだ顔色もよく発熱もなかったので、一応、寺に戻った。
ところが午後、再び施設から連絡が入った。どうも呼吸をされていないようだと。それで急いで施設に向かい、対面したところ、確かに呼吸が止まっていた。まだ鼓動が止まってから、少ししか経っていなかったので、皮膚の温もりも感じられた。やがてクリニックの井上医師が来られ、ご臨終を告げられた。息を引き取る場面には、立ち会えなかったが、朝に会っていたので、そのままの静かな臨終だったことは疑えなかった。まあ、世間では、臨終に立ち会えるかどうかを大袈裟に言うけれど、小生にはそういう関心はなかった。いずれにしても阿弥陀さんにすべてまかせてあるので、安心の大地だ。
母は昭和三年(1928)の生まれなので、昭和、平成、令和と、激動の日本と共に人生を歩んできた。1923(大正12)年の関東大震災後、昭和二年に、因速寺が深川黒江町から現在地、砂町へ引っ越してきてからの誕生である。その当時の因速寺の写真が残っているが、辺りは蓮田が広がっていた。小学校は第二砂町小学校へ通い、その後、東京市立第一高等女学校(現、都立深川高校)へ進学した。母は、通学には爺やが同行した話していたから、相当な「お嬢さん」だったようだ。当時は、まだ「寺」が特権階級然としていたので、そういうような話も頷ける。そんな母も、第二次世界大戦の関連死で母親(碩子、四十六歳)を失い、十七歳の少女が父親と二人で暮らすことになった。とは言え、当時、出戻りの叔母さんも同居していたし、他にもお手伝いさんがいたようで、生活には困らなかった。
昭和28年(1953)に父と結婚し、翌年小生が生まれている。父は新潟県高田下池部の明安寺というお西のお寺の三男で、親戚寺である、下谷の永称寺を頼って東京に出てきていた。永称寺で法務を手伝いながら、東洋大学に通っていたという。ところが因速寺の檀家総代が、たまたま永称寺の総代と兄弟だったこともあり、因速寺ではお婿さんを探しているという情報が伝わり、その縁で母と父は結ばれた。父は、当時、神田寺の友松圓諦さんの起こした仏教復興運動である、「真理運動」にも共鳴していた。その流れの中で、因速寺に幼稚園を作ろうと計画していたらしい。ところがその計画を檀家総代たちに相談したところ、寺院経営と法務に専念して欲しいと言われ、断念したと話していた。
東京には浄土真宗の寺が少ないので、真宗独自の法要スタイルが、社会からは奇異に見られる。真宗の盛んな地域では、当たり前のことが、東京では異常なことに受け取られるので、それを何とかしたいと父は願っていた。まあ例を挙げれば、お仏壇の香炉の線香は立てない、位牌や塔婆は使わない。葬儀の時には、守り刀を棺の上には置かない、四十九餅は使わない、清めの塩は用いないなどだ。そういう儀式や作法が混乱するのは、門徒が真宗と最初に接する「葬儀」作法が乱れているからで、それを糺すために、真宗葬儀社、あるいは真宗葬儀部を作るべきだとも話していた。
父は因速寺へ養子として入寺してから、寺院の維持発展、真宗独自の儀式作法の確立ということを目指して生きていたように思う。父は東洋大学を出てから、浅草区役所の税務関連の仕事もしたようで、これは父の性格と親和性があったようだ。晩年、「あの店に税金の徴収に来たことがある」などと話していた。
しかし、家庭状況はと言えば、「父一人娘一人」という親子関係の中に、よそ者である父が介入してきたのだから、祖父の内面は穏やかではなかった。祖父(定賢)は、俳句や盆栽などを嗜む風流人だった。永六輔さんのお寺とも親戚で、彼の父親・永忠順さんとも付き合いが深かった。祖父は、若くして妻を亡くしたことが引き金だと聞いているが、ずいぶん酒好きに見えた。毎晩、お酒を欠かしたことがなかった。お酒が入ると性格が陽気になり、度が過ぎることが度々だった。
夜分、酔っ払って帰って来ては、孫である我々を追い回し、娘である母に叱られていた。酔っ払って池で溺れそうになったり、門徒宅へ上がり込んでは接待を受け、腰を落ち着けてしまうので、よく迎えに行かされたりもした。ある時、祖父は酔っ払って、父に「お前は、種付け馬だ」と罵ったことがあった。それからどんなことが起こったのか、小生の記憶にはない。ただその言葉だけが、幼い小生の記憶には刻まれている。
いわば、母は、祖父と父との板挟みになり、長年、苦労を重ねてきたのだろう。しかし、それでも母は地元の生え抜きで、長年、保護司を勤め、藍綬褒章もいただいた。自家用車も乗りこなし、晩年まで自分で運転しては、聖路加病院と三越デパートへと、せっせと通っていた。とにかく記憶力がよく、門徒の名前や顔、親戚関係など、事細かに把握していた。電話が鳴り出せば、いち早く受話器を取り、来客が来たら、いの一番に玄関へ走っていった。嫁や娘たち曰く、「電話が鳴って、受話器を取ろうとするんだけど、いつもタッチの差でおばあちゃんに取られるのよ」と。寺の電話は複合機で、各部屋に電話機があり、外線が入ると、それぞれの電話機が鳴り出す仕組みになっている。だから、「タッチの差で取られる」という現象が起こるのだ。
しかし、「何でもできるお寺の奥さん」は、家族にとっては重荷ともなる。母は、こうと思ったら、それが出来るまで執着するタチで、それは功罪相半ばするのだ。晩年はよく骨折した。ある朝、教如上人展が今日までだから、京都の本山に行ってくると言い出した。最初は、ふんふんと聞いていたのだが、霞ヶ関にある歯医者に行って、その足で京都まで行くというのだ。それも歯医者の予約が、午前11時だと言う。歯の治療を終え、それから東京駅へ向かい、京都まで日帰りしてくるというのだ。それはあまりに無謀な計画だから、止めておけと忠告した。朝から京都へ向かうのならばまだしも、お昼から出かけていって日帰りするとは、年齢を考えたらとても無理だと制止した。しかし、例によって彼女は、一度言い出したら、決して諦めないタチなので、我々の忠告も無視して出かけていった。
案の定というか、夕方、京都にいる母から電話が来たという。小生は用事があって寺にいなかったので、弟が電話に出た。聞くと、本山の前の横断歩道で転び、救急車で病院へ運ばれ、レントゲンを撮ったら、左腕の骨が折れているらしい。それで、病院の医師が、これから京都まで迎えに来てほしいと言うのだ。弟は、これから迎えに行くのは無理だから、一日入院して、それから翌日、迎えに行くと答えたという。しかし、母は「そんならいい」と言って電話を切り、あろうことか、夜遅く、一人で京都から帰ってきたのだ。それも、電車の中で腕が痛み出したので、「行きつけの聖路加病院」の救急外来で見てもらってから、寺まで帰ってきたのだ。家族全員、入院着を着て、腕を包帯で釣っている彼女の姿を、唖然と見つめるしかなかった。私服は聖路加病院に置いてきたらしい。
まあ、様々なことがあったが、母を一言で言えば、「因速寺そのもの」だったような気がする。いつも思うことだが、母という実体はないのだ。百人のひとに母の印象を聞けば、百の母が出てくるだろう。確かに共通認識で共感する部分もあるけれども、厳密に見れば、おそらく違っていると思う。つまり、「自分にとっての母」を投影しながら、武田幸子という存在を受け取り直しているひとも多い。「母親というものは……」とか、「坊守というものは……」とおっしゃる方もいる。
ただ、どれもこれも「〈ほんとう〉の武田幸子」の片鱗でしかない。果たして「〈ほんとう〉の武田幸子」はどこにいるのか。それは阿弥陀さんだけが、ご存じのことなのだ。だから、彼女の人生が幸せだったのか不幸せだったのか、〈ほんとう〉のところは分からない。それは生きている人間が、生きている人間の眼で評価しているだけのことであり、〈ほんとう〉のことではない。
母の遺体を見つめていると、これが自分ではないかと思えてしまうときがある。自分が横たわって、目を閉じ、息をしていない。はあ、これは阿弥陀さんのご覧になっている光景かも知れない。向こうから見たらどう見えるのか。この視線だけが、私を解放する。そしてこれでよかったのだ。これしかなかったのだと納得させられている。
コロナの状況もあり、通夜葬儀は親族のみで行うことにした。9月26日(月)18時~通夜・27日(火)10時30分~葬儀だ。全門徒には、10月11日(火)14時~本葬のお知らせをすることにした。お彼岸の、暑くもなく寒くもなく、丁度よい季節を選んで旅立った母は、やはり「因速寺そのもの」のお心遣いだったのだろう。
(南無)