親鸞は、「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」と『歎異抄』(第二条)で言っている。この「まことにおわしまさば」は、「もし〈ほんとう〉であったならば」という仮定表現である。この仮定表現には、カラクリがあって、この表現の裏には、「弥陀の本願」が間違いないという確信が張り付いているのだ。親鸞は『教行信証』(総序)で、「遇いがたくして今遇うことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。」と、確信をもって信心の確立を叫んでいるではないか。もし確信がないようであれば、それこそ「〈ほんとう〉であるかどうかは、私には分からないのですけれども、仮に〈ほんとう〉だとしたら」という軟弱な表現になってしまう。
それではなぜここで、「おわしまさば」という仮定表現を採ったのか。それは、「私親鸞一人においては」という「実存条件」を外すことができないからだ。「あなたにとっても、『弥陀の本願』が「まこと」であってほしい。しかし、私はあなたではないので、これを「まこと」ととしてあなたに押しつけることはできない。ただ、私親鸞に於いては、これが「まこと」だと受け取れるのです」という思いがあるからだ。
ここには「あなた」と「私」という、決して取り替えることのできない「実存条件」が厳然としてあるのだ。「実存条件」を無視して、「私の信じている弥陀の本願が、絶対にまことなのだから、これを信じなさい」と言えば、暴力になる。暴力はいけないことだというのは、現代人の共通観念だと思う。しかし、人間という生き物は不可解なもので、暴力を要求する場合もある。それはマゾヒズムという心理だ。『広辞苑』には、「他者から身体的・精神的な虐待・苦痛を受けることによって満足を得る性的倒錯。一般には被虐趣味をいう。」などとあった。ここには「性的倒錯」とあるが、これは「性」だけに限定することはできない。
いわゆる「宗教」というものは、圧倒的な権威の前に人間を跪かせようとする傾向性があるからだ。圧倒的な権威の前にひれ伏されることで、快感を得させるのも「宗教」という共同幻想ではよく見られることだ。信者は、痛めつけられ罵られることで、却って、自分たちが正しいものであるという快感を受ける。新興宗教が、弾圧される場合、自分たちは真実の宗教だから弾圧されるのだという論理を作る。世俗の世界は、欲にまみれている世界だから、真実などに目もくれない。むしろ真実を邪魔者だと見て、忌避し弾圧しようとするのだと考える。だから弾圧を受ける自分たちは、真実の集団なのだと思い込もうとするのだ。このマゾヒズムの論理を使うとき、「宗教」は人間を容易に支配することができる。
まあ『歎異抄』(第二条)の、この場面で、もし親鸞が「弥陀の本願まことなるがゆえに、釈尊の説教虚言なるべからず、」と言っていたら、マゾヒズムの論理に傾斜していっただろう。「まことなるがゆえに」と「まことにおわしまさば」は、雲泥の差がある。「まことなるがゆえに」とは、「まこと」という権威を自分が知っていて、この権威を他者に押しつける。お釈迦さんが「まこと」だから、それを伝承した善導は「まこと」、さらにそれを伝承した「法然」は「まこと」となり、最後はそれを「まこと」として知っている自分自身もま「まこと」の系譜に属すると位置づけることになる。だから、「ゆえに」で伝承をつなぐとき、自分を「まこと」の側に置き、この「まこと」にひれ伏させようとする権力を生む。これは「権威」を「権力」としてすり替えるペテンだ。
親鸞は、このペテンを見抜いていたのだろう。それで仮定表現で、「おわしまさば」と語ったのだ。そこには私は私、あなたはあなたという、「実存条件」が厳然として横たわっている。それでこの文章を、「法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうえは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」で締めくくったのだろう。
「面々の御はからい」などと、相手を突き放すような言い方は、あまりに冷たい言い方ではないかと読んだひとがいたそうだ。だが、私はそうは思わない。親鸞は、自分も他者も、すべて「弥陀の本願」という「まこと」の内部の出来事であると受け取っていたから、そういう表現が生まれたのだろう。「大丈夫。必ず『弥陀の本願』が「まこと」だと思える時がくるから」という思いが底にあったのだと思う。それに気づくためには、どうしても「実存条件」が必須なのだ。
『阿弥陀経』では、「於汝意云何」と2回出てくるが、この「汝の意(こころ)において云何(いかん)」が、「実存条件」を要求する態度だ。「あなたはどう思うのですか?」と問われることに、私自身が応答しなければならない。なぜならば、「この世」は、あなた一人が教育を受ける阿弥陀さんの学校だからなのだ。