「対象化」の罪

昨日のブログで、「母のいのち」を書いたが、書いた後で、何かが抜けていると感じていた。それがいまハッキリした。そこには、「自分」が抜けていると分かった。つまり、いまベッドで横たわっているのは、母ではなくて、私自身だという事実だ。ベッドに横たわっている母を見て、それを向こうの、つまり、母だけの問題に「対象化」しているということだ。〈ほんとう〉は、そうではない。まさに横たわっているのは私なのだ。物理的に、横たわっているのではない。意味的に横たわっているのだ。
 臨終は、つねに一瞬先にあるものなのだ。それを向こうの問題に見ている傲慢さを知られた。「死」は向こうにあるものではなく、つねにこっち側、つまり「自分」にあるのだ。昨日、26歳で亡くなった男性の納骨式が行われた。家族は悲しみに沈んでいる。26歳は、あまりに早すぎる。もっと生きたかっただろうに、家族も、もっと彼にいろいろな体験をさせてやりたかっただろう。だから、「残念」の一語に尽きる。
 これも人間である故の感じ方だ。この感じ方を否定できる人間はいない。ただし、そこにある問題を炙り出すのが、阿弥陀さんだ。それが〈ほんとう〉だろうかと。彼の死を、向こうにある問題として見ているではないかと。彼の死を、自分の「死」として問題にしていないではないかと。「26歳の死」は、無念の死だが、「100歳の死」は、それほどではないと感じてしまう自分が問われていない。(これも二人称の関係であれば、通用しない感じ方かも知れないが)彼を大切に思うならば、それを、徹底的に自分自身の死として考え直さなければならない。
 そんなことを言っても、自分自身の死など考えることはできないではないかと言われそうだ。確かに、そうだ。ただ、考えることができないということを、改めて考えると、いままで分かっていると思っていた「死」が分からなくなるという御利益が与えられる。
 向こうに見ている「死」は、「生」の否定としか受け取れないのが人間だ。その「生」とは、人間の煩悩が見ている仮想現実だ。人間にとっての「生」とは、「むさぼり」の眼が見ている何かである。「むさぼり」の煩悩が遮断されることが「死」だと人間は感じているだけだ。それは〈ほんとう〉のことではない。
 〈ほんとう〉は、人間が忌み嫌っている「死」を、自分自身は体験できなからだ。人間が分かるのは、向こうに見るという、つまり「対象化」が起こしている仮想現実だけである。だから、26歳の男性が、不幸であるかどうかは、〈ほんとう〉のところは分からないのだ。この〈ほんとう〉という楔が打たれなければ、人間は悲しみから逃れられない。
〈ほんとう〉のことをご存じなのは、阿弥陀さんだけなのだろう。そこに「生」と「死」を超えた「淨土」が開かれる。