94歳7ヶ月になった母は、現在、老人ホームのベッドに横たわっている。とうとう、二・三日前から食事は摂れず、水分補給のみになった。いわゆる「看取り期」に入っている。数日おきに、面会に行っているが、聞き取れないくらいの言葉を発するときもあれば、無言のときもある。ただ、眼だけはしっかりしていて、私の顔をジッと見つめる。試しに、顔を右へやったり、左へやったりしてみた。すると、頭は動かせないのだが、眼だけは、私の顔を追いかけてくる。眼球の瞳が、眼の中で、右へ左へと動くのが分かる。あれこれ声を掛けても、あまり反応はない。しかし、私を見つめる目力は鋭い。言葉は発せないけれども、顎を動かそうとして、入れ歯が揺れているのが分かるから、やはり何かを訴えているのだろう。
腕の皮膚もところどころ破れてきて、そこに手当の包帯が巻かれていて痛々しい。自分の意思が伝えられず、もどかしいと感じているのかも知れない。果たして、痛いのか苦しいのか、あるいはもっと他のことを訴えようとしているのか、それすらも分からない。
母が見つめる瞳の奥で、彼女は何を思っているのだろうか。母は、自分の母親を18歳で亡くしている。東京大空襲の関連死で、母親は46歳だった。それから父親と、つまり私の祖父と二人で、因速寺を維持してきた。27歳のとき、父と結婚し、翌年、私が生まれている。いわゆる婿養子の父親と違って、母は地元に根付いた生え抜きだった。俄然、父とは存在感が違っていた。まあ、譬えれば、母の手の中で、寺も父も、存在しているような感じだった。
しかし、父が因速寺へ入るまでは、母と祖父と二人きりだったので、母は祖父の「女房役」も演じなければならなかった。そこへ父が割って入ったのだから、この三角関係はおのずと「地獄化」していった。私の祖父は、祖母を亡くしてから、酒に目覚めたようだ。毎晩、晩酌していたかどうかは記憶にないのだが、とにかくお酒が入る前は、整然としているのだが、お酒が入るとおおらかになり、陽気になって、度が過ぎた。お酒にまつわる醜聞はたくさんあった。父親を、「お前は、種付け馬だ」と罵ったこともあった。そんな父と祖父との間に入って、長年、苦労したのが母だった。
地元の生え抜きなので、門徒との関係も濃密で、門徒の家族関係や親戚関係など、知らないことはひとつもないというくらいの知識量だった。とにかく、門徒の顔と名前を記憶することにかけて、右に出る者はいないほどだ。まあ、押し並べて、「坊守」という立場のひとは、そういう傾向が強い。そういうこともあって、地元で何十年も保護司を勤め、藍綬褒章までいただいた。叙勲のとき、美智子妃殿下から直接声を掛けてもらったと喜んでいた。
ベッドに寝たきりになっている母の瞳の奥を見つめていると、走馬灯のように過ぎた日々の記憶が蘇ってくる。いま母は何を想っているのだろうか。こちらから見つめて、あれこれ思っていると、その視線が逆転してくる。つまり、向こうから私はどう見えているのだろうかという思いがせり上がってくる。それこそ、「こんな老人ホームに入れやがって!」と憎しみの声を発しているのかもしれない。また、「いままで有り難うね」と感謝しているのかもしれない。以前、面会に来たときには、聞き取りにくかったけれども、確かに「有り難う」という言葉を発していたから、それもありだ。あるいは、「こんなに痛いんだよ、早く楽にしておくれよ」と訴えているのかも知れない。ともかく、言葉が発せないということは意思の疎通が難しい。こうなってくると、我々が母の顔から、意思をどう読み取るかという領域に、意識を持ち込まざるを得ない。しかし、それをどれほどやってみても、所詮は、我々が、我々の文脈に持ち込んだだけのことで、母の意思とは乖離していることも間違いない。
さらに、見つめ続けていると、自分が母になったような気もしてくる。つまり、自分が、口も利けず、ベッドに横たわっているようだ。その時、自分は何を想うのだろうかとも思う。できれば、阿弥陀さんの法界に遊んでいられれば、いいなあと思ってしまう。やがて、やってくるであろう自分の「臨終」の場面を想定もしてしまう。
いま、この文章を書いているときにも、母はベッドに横たわり、天井を見つめているのだろう。できれば、その思いが、天井を突き抜け、天まで届いて欲しいと願ってしまう。
生きたくても生きられない。死にたくても死ねない。そのギリギリの一点において、私と母は同じ場所にいるのだと、改めて教えられている。