核心を突いた賢人の感想

京都の賢人から拙著への感想が届いた。まさに小生の言いたかった核心を突いた感想に、身の震える思いがした。そして、小生の表現が改めて、「〈真実〉のフォルム」の一片を表しているのだと、思い知らされた。それで、ここに感想文を披露し、〈真・宗〉というものをどう受け取ったらよいかと戸惑っている人びとに、「目の付け所」を提示したいと思ったので、ここに許される範囲で転載することにした。
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武田定光 先生
その後、御無沙汰しております。
「『死』観の解体」を、再読、拝読させて戴いております。
随所に、胸を突かれるような箇所がございます。
何度、読み返しても、新鮮な感動と、新しい「いのちの再発見」を感じさせられております…。とりわけ、(P 60・11行~P63・4行)の、以下の箇所に、心が深く引きつけられております。3回、4回…と、読み直しても、読み直す度毎に毎回、新鮮な感動に、襲われております。(以下、引用文)
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 自分は「真実の浄土」に往生するのだと思っているけれども、それは「真実の世界」ではなくて、自分の描いた理想郷、つまり「天」のことなんだと見抜いたわけですね。
要するにこれは、欲望の目で見た限りのものです。「あっちの世界はいいものだ」という、理想郷みたいなものでしょう。だから、それは「天」のイメージなんです。「天」ですから、そこはまだ欲望の世界です。「有頂天(うちょうてん)」というのも欲望の世界のことですね。
一方の「地獄」も、この世の苦しみというものを投影して、「地獄」をイメージしているだけです。
ですから、「利害損得心」が安楽だと感じた世界は「浄土」とイメージするし、苦しみと感じた世界は「地獄」とイメージするのです。
この「浄土」にも「地獄」にも生まれないということになると、それでは死んでからどこに生まれ変わるんだという疑問が当然で出てきます。
その問いに対しては、たった一言で答えられます。それは阿弥陀様だけがご存知だと。だから、「往生は、弥陀に、はからわせまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。」(『歎異抄』第十六・聖典P637)
と。
阿弥陀様だけが御存知のことで、人間がああだこうだということはできません。人間の「考えるという範疇」を遙かに超えているというのです。
こういうことがあるから、「念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。」(『歎異抄』第二条・聖典P627)という言葉が生まれてくるのです。
 浄土真宗は浄土に往生するための教えだと言われますけれども、本当はどこにも生まれないということなのです。どこにも生まれないという言い方も変ですね。
それは「生まれるか、生まれないか」という問題関心を前提にした話ですからね。
そういう問題関心が生まれるのは、我々が死後の世界を想定した上での話になりますよね。
いま生きているけれども、やがて何年後かにこの世を去っていく。去ってからどこへ往くのだろうという発想になりますからね。
「来世」という関心があって、「どこに生まれるのか」という疑問が生まれます。
そういう発想の全体を「断」と否定されるのです。丁寧に言えば、死後にどこか生まれるわけではないけれども、生まれないわけでもないと、その両方の考えを否定するのです。
「生まれるか、生まれないか」という関心全体を擲(なげう)たせるのです。
それを『歎異抄』は、「弥陀に、はからわれまいらせて」という一言で言っています。
もし生まれる場所があるとするならば、それは阿弥陀さんだけが御存知だと言うのです。
一応、『歎異抄』も「浄土往生」という物語を基礎にして話が組み立てられておりますから、その物語の中で言えば、そういう表現になるのです。
でも真実がどこにあるのかと言えば、「死後、どこに生まれるのか」という問題関心を丸ごと放擲せよということなのです。そうやって放擲することを、本当の「浄土往生」という言葉に込めているわけです。
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 小生も、浄土真宗(東本願寺さん)の聞法会や法話の会合に、参加し、聞法の御縁に接することもかれこれ20~30年ほどになりますけれど、極楽浄土や地獄界の説明で、武田先生がここでおしゃっておられるような説明を、他の方からは、一度も、お聞きしたことが、御座いませんでしたので…。
 新鮮で、かつ、非常に大切な視点だなぁ…!と、改めて、感動させられ、受け止めさせて戴いております。
 浄土教でも、いやいや、浄土真宗の御坊様でさえも、【「利害損得心」が安楽だと感じた世界を「浄土」とイメージし、苦しみと感じた世界を「地獄」とイメージする…】という、とらえ方、をなさる方々ばかりでしたので…。
 これは仏教だけでなく、キリスト教の場合でも、武田先生以外の、他の浄土教や、浄土真宗…その他の宗派の御坊様方と全く同じように、「天国」と「地獄(や煉獄)」を理解し、説教されてきておりますよね…。
 小生は、そうしたキリスト教理解や、他の浄土教や、浄土真宗、その他の仏教各派の御坊様方の理解の仕方には、どう考えても腑に落ちない感じ、違和感みたいな感じを抱き続けてきておりましたので…。
 やっと、長年の疑問やごだわり…モヤモヤが明らかになったように感じさせられ、改めて、武田先生に、深く感謝申し上げたく、思っております。
 【死後にどこか生まれるわけではないけれども、生まれないわけでもないと、その両方の考えを否定するのです。「生まれるか、生まれないか」という関心全体を擲(なげう)たせるのです…】
 ここが、大切な処なんですよねぇ!!
 今、世間を騒がせている、(旧)統一教会の信仰の仕方も、まさに、「利害損得心」が安楽だと感じた世界を「天国(浄土)」とイメージするし、苦しみと感じた世界を「地獄」と理解する(イメージする)ことから、ああいう、《逆立ちした信心・・恐ろしいというか・・悲しい信心の世界》が展開されちゃうんですよねぇ。当人にも悲劇だし、周囲の人にも悲劇や苦しみを与えてしまう。信心って、ひとつ間違えば、ホントウに、恐ろしいですよねぇ!
 いえいえ、これは、決して、いわゆる《カルト教団の信仰》だけに限った事ではないんですよねッ!
(旧)統一教会の信仰だけがカルト宗教(カルト信仰)なのではなくて、キリスト教やイスラームや、ユダヤ教などの世間からは正統派の由緒正しい唯一神信仰と多くの人から思われている世界的普遍的な宗教の場合でも、天国や地獄など、死後の世界を、どう理解するか、どう受け止めるか、如何では、カルト信仰(カルト教徒)に、容易に転化しちゃうんですよねぇ!!
親鸞上人様の信仰の世界とは、遠く隔たった、オカシな世界(や信心)へと、容易に、転化しちゃうんですよねぇ!!
全ては、死後の世界も知りたい、死後も安楽でありたいとの、人間の身勝手な《欲望が産み出す》のでしょうけど…。
 とりあへず、感謝の一文をしたためました 感謝多謝。
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以上が、感想文だ。ある意味、ここにこの感想文を載せるということは、小生が「いい気になってやがる」ということでもある。しかしなぜ「いい気に」させられるのか、これはやはり、「〈真実〉のフォルム」の一片が、そうさせるのではなかろうか。そして、感想文を読んだ後、この表現を再度、融解しようと迫ってくる、〈真実〉に引きずり込まれていく。〈真実〉の深淵へと、ずるずると引きずり込まれていく。