何気なく鏡を見たら、そこには、醜い「老人」が映っていた。誰だろうと思ったら、それは自分だった。髪の毛も大分白くなっている。顔のシミやらホクロも増え、どうみても「老人」だ。何だか、自分で思っているよりも、自分は「老人」だった。何だか、汚らしく、醜い「老人」が、そこにいた。
「思い」は老化しないが、「身体」は間違いなく老化する。これがギャップと感じ、ズレてくるのが「老化」だ。「あんな老人になりたくないな」と思っても、そこから逃げることはできない。まあ、早い話が、鏡を見なければよいのだ。そうすれば、眼識で捉えられる「老化」は忘れられる。それでも「身体」は、そういうわけにはいかない。五十肩というのは、痛みとして「老化」を自覚させられる。膝はグルコサミンで大分、痛みを感じなくなったが、肩はダメだ。右肩は、寝るときにも痛む。小生は、右を下にするほうがしっくりくるので、右肩を下にして寝るのだが、これが痛い。
やはり、「老化」とは「痛み」である。身体が、意識の領分を侵犯して「痛み」となって刺激してくる。痛みがなければ、「思い」は身体を忘れて生きられる。若い頃は、身体をもって生きているのだが、本当は身体はないのだ。「思い」だけで生きられる。しかし「老化」というものは、身体が「思い」の領域を侵犯してくる。そして身体は、「私はここに居ますよ」と主張し出す。
相変わらず、鏡の中には醜い「老人」が映っていたのだが、ハッと思った。それは醜い「老人」に違いないのだが、「天下一品の醜い老人」じゃないかと。この「天下一品」というのは、この世にたった一つの奇跡的存在という意味だ。「老人」は醜く、汚く、臭いのだが、これも「天下一品の醜さ、汚さ、臭さ」だった。
人間の眼だけであれば、この「天下一品」は見えない。仏法の眼があったから見えたことだ。やはり、「複眼思考」が仏法の御利益なのだ。人間の眼だけであれば、自分はいまごろ、単なる情けない「老人」で、虚無的なこころで生きていただろう。