遠回りが、実は近道

若い娘さんから、悩み事を相談された。ご本人は看護師を目指して猛勉強中だったが、いろいろな挫折をくぐり、いま看護師を目指した当初のモチベーションがあやふやになって困っていると。まず看護師の資格を取り、やがて助産師に成りたいという夢があるのに、どうしたらよいかと。小生は、まったく予備知識もないので、ただお話をお聞きしていた。
 お聞きしていて、小生の中に降りてきたイメージは「メリーゴーランド」だった。彼女はメリーゴーランドに乗っていて、グルグルと忙しそうに動いている。メリーゴーランドに乗って、そこから周りをみたら、世界がグルグルと回っているように見えるのではないか。だから自分の進むべき道も見つからない。問題はそこから如何にして降りるかだ。まあ言うのは簡単だが、これが至難の業だ。
 私は、まず彼女が助産師(看護師)に成りたいと思った、当初のモチベーションをお聞きした。彼女は、お母さんが赤ちゃんを産むことはいのち懸けで、その場を支えられるひとに成りたかったと話された。そのモチベーションがいまでは雲霧にかかったようになっている。聞けば、彼女はインド(コルカタ)のマザーテレサの家まで行った。そこで少しボランティアをした。そこにいつも黙ってうつむいて座っている老婆がいて、言葉が通じているのかどうか分からないけれども、彼女をマッサージしたそうだ。そうしたら、別れ際に、あまり聞き取れなかったけれども、「サンキュー」と漏らされたように聞こえたと話してくれた。この体験描写は、おそらく彼女の実感したものとはズレているのだろう。それでも、この言葉を超えた経験は、彼女を一生支えるものだろうと直感した。
 その話を聞きながら、小生は感動していた。看護師になりたいという願いを持って、マザーテレサの家まで行こうとこころざすひとがどれだけいるだろうか。この体験は彼女にとって、一生の宝物じゃないかと話した。
 そして、もし看護師になれたとして、一番辛い病棟担当は、末期ガンの方々の病棟だと聞いているので、その話をした。他の病棟は、まあいろいろな場合があるけれども、退院していかれることが多い。そのとき「お大事に」と言って別れることができる。そこに看護師に成ってよかったという、やりがいが感じ取れる。しかし、末期ガンなど、病棟でいのちを終えていかなければならない方々には、「お大事に」と言う場面はないのだ。それで病棟を辞められるかたもあると聞く。
そこまでいくと、看護師には「生と死」を超えるという視座が要求されてくる。それは我々、僧侶が課題としていることと同じなのだとも話した。まあ、そこまで行かないと、本物の看護師には成れないのだろうなあ。
 まあ人間は必ず死ぬので、小生のような老人から見ると、若いときは何度でもやり直せるのだから、一度、メリーゴーランドから降りて、降りたところから、大空をポカーンと眺めて見てみたらなどと話した。自分にとっては、遠回りのようだけれども、後になって見れば、それしか道はなかったと思えるし、遠回りが、実は近道だっと分かるもんなんだ。
 帰り際、彼女は少し元気になられたように見えた。
 相談に乗ってくれたことへ感謝されたが、小生も嬉しかった。人間は犬や猫には相談しない。相談するのは人間だけだし、相談したいと思ってくれたことへ、こちらが感謝すらした。そして、一人の人間が、いろいろな問題を抱えつつ、「それにも関わらず」生きてみようと思えたら、そんな素晴らしいことはないではないか。「たかが人生、されど人生」だが、その裏に、「されど人生、たかが人生」と、人間の無理な緊張を放電する避雷針が必要なのだ。