NHKの朝ドラ「ちむどんどん」の、矢作の翻身に、罪意識がいかにして溶解するかという「密意」が表れていた。主人公・暢子の先輩シェフである矢作は、勤め先のラ・フォンターナ(イタリア料理店)を、何の前触れもなく辞めてしまった。それで店は大混乱になった。それはオーナーの姪である暢子を、自分を差し置いて昇格させたことへの腹いせだった。矢作は、やがて独立を計画し、実際に店を出したが、数年で潰れ、借金のみが残った。それもこれもオーナーが引き起こした災いであり、自分には何の落ち度もないと考えたのだろう。深夜、ラ・フォンターナに忍び込み、当日の売上金と、店の権利書を盗み出した。普通なら警察に届け出るはずの事件を、オーナーはすべてが私一人の問題だから、口外するなと従業員全員に周知させた。その後、権利書が悪徳不動産屋の手に渡り、大変なことに発展するのだが、意外な展開で、一件落着する。
その後、矢作は調理人の職を探すが、どこにも雇ってもらえず、ホームレスのような生活をしていた。そんな彼を暢子が見つけ出し、新たに開店する沖縄料理店の調理人として雇いたいと言い出し、ラ・フォンターナへ呼び出した。
椅子に座った矢作は、なぜあのような悪事をはたらいたのか、俺の罪を断罪するために呼び出したのだろうと言う。矢作の目は恨みを抱えて、オーナーを見つめた。ところがオーナーは封筒らしきものを、矢作の座っているテーブルへ差し出した。矢作は、何だろう?という顔で、それを見つめた。オーナーは、これはあなたへの退職金だという。あの時、ちゃんと手渡せなかったから、いま渡すのだと。そして、あの時はごめんなさいとオーナーが謝罪するのだ。まさかの展開に、矢作のこころは動揺していた。さらにオーナーは、自分がオーナーとしての人徳に欠けていたとも言う。自分の行為が従業員の不満を引き起こし、あのような行動を起こすことにまでさせてしまった。これは私の至らなさだと言って謝った。
そうしたところ、いきなり、矢作は椅子から立ち上がり、床に手をつき、「申し訳ありませんでした」と涙ながらに謝罪したのだ。
まあ小生は、ドラマの展開を視ていて、そんな馬鹿なことがあるかと思った。人間はそんなに単純なもんじゃないぞ、人間を軽く見てもらっては困る。これじゃあ「吉本新喜劇」じゃないか。矢作が、「申し訳ありませんでした」と言った途端に、観客の方を向いて、ペロッと舌でも出してほしかった、と思った。
まあ、それはそれとして、ドラマは人間に起こるであろうあらゆる可能性を排除することなく、特殊な一場面として切り出し提示するものだ。つまり「事実は小説より奇なり」ということがある。そうやって覚めて見れば、ここに人間というものの、「罪と許し」の基本形が表れていたのだ。
これは『涅槃経』の阿闍世の翻身と軌を一にする。父を殺した阿闍世が、その罪の重さに苦しむとき、「あなたには罪はない」と釈迦は言うのだ。「あなたに罪があるならば、私にも罪がある」と。この釈迦の許しを受けた阿闍世は、初めて自分の罪に目覚め、罪を受けいれ、謝罪が起こる。謝罪しても謝罪しきれないことに目覚め、その罪を一生背負うという勇気が起こる。これは恨みをもった人間にとって、その恨みが、如何にして溶解していくかということを教えている。これが矢作の行動とも重なっていた。人間は、自己の無罪性を容認されたときに、初めて「罪」ということと自分が一体化し、その「罪」を謝罪するというこころが起こる。つまり、初めて、そこに、「人間」というものが誕生するのだ。