「理世俗」にとどまる

昨夜の秋葉原親鸞講座でお話ししていて、本日まで残っている話題は、「言葉」は「理世俗」に属すという話だ。我々が生きている意味空間は「世俗」だ。そして「真如法性」の意味空間は、「超俗」だ。「世俗」を生きていて、人間が仏法を聴聞するということは、「超俗」を欲しいからなのだ。しかし、「超俗」は「世俗」にとっては不可思議なもので、決して言葉で表現することはできない。まさに「不可称不可説不可思議」だ。それで「言葉」に頼らざるを得ない。「言葉」は「世俗」に属しているけれども、「超俗」にも属していて、その中間帯にある。それで「理世俗」という。「世俗」に属するけれども、「理」、つまり「超俗の道理」に接している。
 「言葉」は「世俗」に属していても、「道理」も示している。つまり、「真如法性」の法則性にどこかで触れている。この「真如法性」が「言葉」を通してにじみ出てくる。これが法話の味である。「真如法性」の味わいが、聴聞の味である。なぜ聴聞したいのかと言えば、この法性の味を求めてだ。「言葉」では決して表現することのできない、法性を直感するのが法座だ。
 しかし、なぜ「世俗」にしか住めない人間が、「超俗」に憧れるのだろうか。それは「真如法性」と、「世俗」が無関係ではないからだろう。無関係ならば、感動とか興味が湧くということは起こらないはずだ。間違いなく関係しているのだ。ただ、その関係の仕方は、「真如法性」が「世俗」の上にあって、そこは聖域であり、人間の手の届かないところという関係ではない。むしろ「真如法性」は「世俗」の下にあって、それを支え成り立たせているという関係だからではないか。
「世俗」が「真如法性」に包まれてあると言ってもよいのだろう。だから上を目指して「真如法性」を手に入れようとしても、それは無理だ。むしろ逆に、汝の足下に「真如法性」あり、と気づくことだ。
 考えてみれば、我々の実存、つまり自己という存在は、「不可思議」から出発しているではないか。なぜ人間に生まれたのか、他の生物でもよかったのに。なぜ男、あるいは女として生まれたのか。なぜ日本に生まれたのか、アメリカでもよかったのに。なぜこの時代に生まれたのか、他の時代でもよかったのに。なぜ自分の両親は、このひとたちでなければならなかったのか、他のひとでもよかったのに。自分の実存を考えてみると、自分の思いをまったく超えている。つまり「超俗」なのだ。
 この「超俗」を根っこにして、「世俗」が成り立っているということではないか。だから、我々は「世俗」にありながら、「超俗」に感動するのだ。身体は知っているのだろう、「超俗」を。ただ思いが、それを「世俗」として見てしまうのだろう。「世俗」とは、思いが感じているだけのことで、「世俗」という実体はないのだろう。
 思えば、親鸞は、「仏意難測(仏意測り難し)」と言っている。突き詰めると、阿弥陀さんが、なぜあらゆる苦悩の存在を救おうと思い立たれたのか。そんなことは、「世俗」である自分に分かるはずがないと。「超俗」のことなど分かるものかと言い切っている。しかし、そう言い切ったすぐ後に、「雖然竊推斯心(しかりといえども竊にこの心を推するに)」と言っている。仏さんの願いなど、人間のこの自分に分かるはずがないじゃないか。しかし、だからと言って、まったく絶縁しているわけではない。その仏さんのこころを、人間である自分が推測してみると、次のようなことが言えるのではなかろうか、と展開してく。
 これも矛盾した言い方だ。分からないなら、それを推測することもできないではないか。しかし、分からないにも関わらず、そこを推測すると。人間が、分かってしまったら、もう二度と分からない世界を求めないから、敢えて、分からない世界を、分からないと突き付けてくるようだ。でもその分からない「仏意」を思い続けていると、分からないでよかったのだと思えてくる。分からないから感動するので、分かってしまったら感動はしない。
 分からないで、分かっていくと言ったら、これも矛盾だが、でもその矛盾が有り難いのだ。分からないが、分からないままで、分かっていくとしか言いようがないのだ。