先月の秋葉原親鸞講座の質問で、「山上徹也容疑者」についてどう思うかと問われたので、それを本日お答えするため、レジュメを作った。まあ「感想と質問に答えて」は、毎回やっていることだが、お裾分けで、ここに転載した。
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安倍晋三元総理が暗殺されるという衝撃的な事件を、テレビの報道で何度も繰り返し見ました。このようなことが何故起こるのかと、呆然とさせられました。「結果」はたった一つなのですが、その「結果」が起こるための「原因」は無量無数にあります。だから決して「原因」を一つに絞ることはできません。それでも、マスメディアは、事件を起こした山上容疑者の犯行動機を徐々に明らかにしてきました。母親が旧統一教会の信者であり、莫大な献金をすることで家族が破綻したと。首謀者である旧統一教会幹部の暗殺を考えたが難しかったので、組織と関係の深かった安倍晋三元総理を暗殺したと報じられています。
テレビなどでは、要人警護の問題と山上容疑者の犯行動機という二つの視点で番組が組まれていた。そこから旧統一教会の組織上の問題が暴かれ、さらに安倍晋三元総理の祖父である岸信介氏にまで遡って追及されていきました。確かに、それらの問題は大きな問題ではあるけれども、山上容疑者の本質的な動機とは別次元の話だと思います。だからと言って、彼の生育歴を克明に調べ上げたとしても、そこまではたどり着けないとも思います。親に問題があって、家族が「不幸」になったなどという話は、世間によくある話ですから。世間は、旧統一教会に盲信した母親の犠牲になった「可哀想な子」という同情も寄せているようです。でも彼は親に問題のすべてを押しつけ、自分はまったくの被害者だと考えているのでしょうね。だから、親というものは自分をどれだけ犠牲にしても子どもを護り育て「幸福」にするのが当然だと思っているのでしょう。阿闍世王子と同じ発想です。親のエゴイズムで、子どもである自分を「不幸」にするなどは許されないと。そうであっても、「親」と言えども「罪悪深重煩悩熾盛の凡夫」なのです。これは阿弥陀さんの見る人間の見方です。だから子どもよりも自己を優先するのが「母」という存在だと言っているのです。しかし、これは阿弥陀さんの人間の見方であって、人間そのものは、この見方を肯定できないでしょう。しかし、現実にこういう事件が起こったということは、そういうことが起こりうるということを示しています。そして、山上容疑者自身も、「さるべき業縁のもよおせばいかなるふるまいも」(『歎異抄』第13条)する自分だと自覚しなければならないでしょう。母親が「煩悩具足の凡夫」だと理解できるためには、自分自身の「煩悩」の自覚がなければなりません。この「自覚」が生まれるためには、これは『教行信証』信巻の『涅槃経』で展開していることですが、阿闍世に対するお釈迦さんの謝罪が必須なのです。これは「密義」(聖典p259)であって、言わば究極のカウンセリングの場面で成り立つことだと思います。誤解を怖れずに一言で言えば、「お前には罪はない」という如来の悲愛が届く以外に、容疑者の「怨恨」は溶解しないのです。(詳細は「信巻」に書かれています)
思えば、現代でも、山上容疑者と同じような「怨恨」を抱えた人間がほとんどなのです。それは我々の意識の根底に「恨み」を抱えているからです。その「恨み」とは、「四苦八苦」の娑婆に生み出されたことへの「恨み」です。「死すべきいのちとして誕生させられたこと」への「恨み」です。自分では意識はしていませんが、人間はみんな山上容疑者と同じ意識の根っこを持っているのです。この「恨み」が根っこにあるものですから、娑婆で自分を「不幸」にする相手が見つかれば、必ず怒りを起こし「報復」をしようとします。そういう構造が見えなければ、枝葉は切れても根っこは切れないでしょうね。ですから、まだまだ第二、第三の山上容疑者は生まれてくるでしょう。