門の前の黒いひと

机の前には、『真宗入門』の表紙が貼ってある。この表紙は、何か妙に気になるのだ。門の前に、ひとが立っている。針金か何かで右手には「耳」、左手には「口」という文字をぶら下げている。大きな「門」という文字の間からは、太陽のようなひかりの塊があって、そこからひとに向かってひかりが差している。そのひかりは強烈で、そのひとは人型に真っ黒になって描かれている。そのひとはひかりに照らされているから、こちらから見ると真っ黒に見えるのだろう。顔はひかりに向けられているから見えない。こちらから見えるのは、背中だと思っていた。
 「門」という文字に「口」を合体すれば、「問」という文字になる。「門」は、最初「問」として人間の前に現れるのではないか。お釈迦さんが「仏教」に目覚めるための「問」は、「色味之間、見老病死、悟世非常」(色味の間に処して、「老・病・死を見て世の非常を悟る)(聖典p3)と書かれている。お釈迦さんは、王宮での生活に浸っていたのだが、あるとき、「老人・病人・死人」を見て、なぜ人間は老化し病化し、死に至るのかと問われた。この「問」がなければ、「仏教」はこの世にもたらされなかっただろう。それほどに「問」は重たく深い。なぜなら、この「問」は自分をも超えたところから起こっているからだ。自分が意図的に問うたというよりも、最初は、王宮での生活に嫌気が差したという程度のことだろう。王宮の生活が憂鬱になってしまったのだ。そして、決して移ろうことのないものを求め始めた。だからお釈迦さんにしては、自分が意図的に問うたのではなく、問わざるを得なくされたということだろう。安倍晋三元総理を銃殺した山上徹也容疑者にも、おそらく通底した問いだっただろう。この「問」は、自分の意識から出たものではないから、自分では、振り払おうとしても振り払うことはできない。自分のいるところにはいつでも、どこでも、その「問」に取り憑かれ、憂鬱にさせられる。
 ただその「問」をどのように育てていったかの道筋が、お釈迦さんと山上容疑者とは違っていたのだろう。「問」は「聞」を引き起こす。つまり先人の言葉を聞くのだ。果たしてお釈迦さんは、どういう言葉を聞いたのかは分からない。お釈迦さん以前には「仏教」はなかったのだから、当初は先人であるバラモン教の話を聞かれたそうだ。山上容疑者は果たして、どのような先人の言葉を聞いたのだろうか。それは分からない。しかし、その結果を見れば、どのような「聞」に遇ったのかが分かってしまう。
 それはそれとして、当初、私は黒いひとはひかりの方を向いていると思っていたのだが、それが逆に見えだした。つまり、このひとはこっちを見ているのではないかと。強烈なひかりを背中に浴びて、こちらに向いて立っているように見えたそうなると、このひとには「門」は見えないはずだ。「門」という文字の右の柱には「出口」、左の柱には「入口」という貼り紙がしてある。これはこちらから向こうを見れば「門」は、これから入るための「入口」に見えるし、門に背を向けていることになれば、「出口」に見える。天親菩薩の「入門・出門」という言葉を受けて、親鸞は「入出二門を他力となづく」(『入出二門偈』聖典p465)と言う。「門」の前に立っていることになれば、「入口」であり、「門」を背にしていることになれば、「出口」だ。この二つの「門」を、他力という一つの出来事だと親鸞は見ているようだ。確かに、背を向けているとなれば、もはや「門」は見えない。もう「門」の中に入っているのだから。「門」が「門」として見えていれば、それは浄土の「入口」だし、「門」が消滅していれば、それは浄土の「出口」となる。浄土の「入口」ということになれば、「さあこれから入門するぞ」というふうに未来を待望するメージになる。また浄土の「出口」となれば、ここは「もうすでにして入門していたのか」というふうに浄土の内部というイメージになる。いままで「入口」だと見えていたものが、実は「出口」だったのだ。しかし、「出口」であることを眼で見ることはできない。「門」に背を向けているのだから、見ることなどできない。浄土はひかりを背中から浴びる場所だったのだ。そうなると、もはやひかりは見えない。強烈な阿弥陀さんのひかりは眼で見ることができない。直視すれば、「超日月光」と言われる強烈なひかりによって、眼が焼き尽くされてしまう。ただ、そのひかりに背を向けることしかできない。背中からひかりを浴びれば、自分の見ている光景は、すべてがひかりに照らされた世界に変身する。背中を向けることだけが、ひかりを感じ取ることができる。そもそも、日常経験でも、モノが見えるということは、そこにひかりがあることを証明しているではないか。モノはひかりなしに、モノとして存在することはできないのだ。
 果たして、その「門」は「入口」なのだろうか、「出口」なのだろうか。こう問うと、「入口」でもあり、「出口」でもあるように思える。「もう済んだと思ったが、まだ始まっていなかった」という意味では、「入口」であるし、「まだ始まっていないと思ったが、もう済んでいたのか」となれば「出口」である。これは要するに「本願」(原因)と「本願成就」(結果)の関係を意味している。
 だからこの黒いひとは、私から見ると後ろ向きに背中が見えているようでもあり、また前向きに正面が見えているようでもある。まるでレヴィンが描いた「ルビンの杯」だ。絵には杯が描かれているのだが、ずっと見ていると、左右対称に対面した顔が描かれているように見える。杯が見えているときには、対面した顔は見えない。だが顔が見えると、杯は対面した二つの顔の空間になっている。どちらか一方しか見えない。これが「入口」と「出口」が両方に見えることの本質のようだ。
 私が「まだ救われていないのですか」と問えば、阿弥陀さんは「もう救っているぞ」と応える。私が「もす救われているのですね」と問えば、阿弥陀さんは「まだ救われていないぞ」と応える。人間から見れば、これは「矛盾」である。しかし、この「矛盾」が否定的な出来事ではなく、悲愛の、実に慈愛に満ちた「お育て」だったのだ。この「矛盾」は矛盾自身に身悶えしている矛盾である。そこで矛盾が胎動を始める。矛盾が矛盾であることに飽き足らず、つねに運動として躍動し始める。そんなダイナミックな運動が大波の如くに押し寄せる。いま、私は、その波に圧倒されている。