この「何から何まで分かっていない」という〈真実〉の大地があって、その上で辛うじて人間界が営まれている。「何から何まで分かっていない世界」が99%で、「分かっている世界」が1%だ。「何から何まで分かっていない世界」は実に豊かだ。「分かっている世界」は貧しくて、詰まらない。
それでも「分かっている世界」に慣れ親しんでいるから、「分かっている世界」のやり方で日々を過ごすしかない。今日は、寺の前の道路で下水道工事が行われ、全面交通止めになる。車はもちろん、自転車すら通行できないという。住民は大いに迷惑しているが、工事を止めろというひとはいない。自分たちが使う下水道を修復してもらうのだから、仕方がないと諦めている。「分かっている世界」は、それで済んでいる。
東京には、人間の歩ける道はほとんどなくなった。自動車が走ることを最優先にした道路だけが大手を振って作られる。アスファルト舗装をするらしいが、あれは自動車のための設えで、人間が歩くためのものではない。アスファルト舗装は左右の側溝へ雨水が流れるように、低く作られる。つまり中央部分が盛り上がり、両端の側溝部分が低い。だから短距離なら違和感なく歩けても、長距離には適さない。道の左側を歩くと、左足が低く、右足が高いので、長い間歩いているとアンバランスで、足が痛くなる。結局、自動車さまだけが通る道を、人間は遠慮しながら歩かなければならない。
そうは言うものの、自分も自動車を走らせているのだから、まったく矛盾している。自動車に乗っているときは、綺麗に舗装された道を走りたいし、歩いているときは、自動車ばかりのさばってと腹を立てている。
まったく矛盾している。この「分かっている世界」を「そらごとたわごとまことあることなき」(『歎異抄』後序)と糾弾されなければ、タマシイが窒息してしまう。何が分かっていて、何が分かっていないのか、この峻別が呼吸口を開く。