阿弥陀さんから始まる朝。人間界は、すべてが「過去」に飲み込まれる。阿弥陀さんだけが、限りなく「未来」におられる。だから決して「過去」に飲み込まれない。「過去」は既知になるが、「未来」は決して既知にはならず、未知となる。この限りなき「未来」から来るひかりに目ざまされる。
人間は「未来」に対しての、態度の取り方が二つある。「未来」に対して不安を感じるか、あるいは「未来」を待望し安心するかのどちらかだ。「未来」が輝かしいものであり、望ましいものであれば待望する。でも、自分の望まない未来であれば、それは不安となる。コロナ感染者が増加すれば不安になり、減少すれば安心する。安心は「浄土」、不安は「地獄」という言葉で象徴できる。その両方を超えさせようというのが、阿弥陀さんだ。不安も安心も、両方とも「利害損得心」が感じ取らせる感情だから。
そこで阿弥陀さんは決して人間が感じ取ったり、知ったりすることのできない「未来」に立たれている。本堂の中央に立たれている阿弥陀さんが、今日はやけに立派に見える。決して人間の手で彫ったり描いたりすることはできないのだぞと叫んでいる。この叫びこそが、「立っている」という意味なのだろう。人間の知の手をバッサリと切り落として下さる悲愛なのだ。