『真宗入門』発刊す

『真宗入門』(全186頁)という名前の講演録を発行した。まだ昨日印刷所から届いたばかりで、湯気が出ているような本だ。これは、今年三月に、練馬の真宗会館で、三日間にわたって開催された「真宗入門講座」の講演録だ。まだ因速寺の販売リストに上がっていないので、写真は未掲載だ。この本の表紙は例のように小生がデザインのラフを描き、それを娘がパソコンで絵にしてくれたものだ。「百聞一見」で、写真があればすぐにわかるのだが、まだHPにアップする力が小生にはないので、言葉で表現してみる。
表紙全体の色は、カフェオレ。真ん中に灰色の「門」という形の、いかにも石で出来上がった門が、デーンとある。右の門柱には「出口」、そして左の門柱には「入口」というラベルが貼ってある。その門を前にして、一人のひとが立っている。そのひとは、右手に「耳」という文字を、そして左手には「口」という文字を吊り下げている。「門」の中に「耳」を入れれば、「聞」という文字になるし、「口」を入れれば「問」になる。石柱の「門」の間から、白い発光がこちらに向かって射している。そのひかりを浴びたひとは、真っ黒だ。つまりひかりを背にしているから、こちらから見れば逆光になり、そのひとの影しか見えない。そのひとは「耳」と「口」を両手にして、その「門」の前に、スックと立っている。
 「入門」という言葉から、こんなデザインが小生に訪れてきた。「門」は、実に様々なイメージを生み出す言葉だ。建築学的な「門」も面白い。「門」がなければ、その場所に入ることができない。天親菩薩の『浄土論』で「五念門」の果として説かれる、五功徳門は、第一門が「近門」、第二門「大会衆門」、第三門が「宅門」、第四門が「屋門」、第五門が「園林遊戯地門」である。「門」に近づくと、そこには「大会衆」だから、仲間が発見され、更に近づくと「宅門」で、浄土の邸宅が現れ、更に近づくと「屋門」で、建物が現れる。五番目の最後の門が面白い。いままでの門は、そこへ入るための門なのだが、五番目は出るための門だという。いままで「入口」だと思ってやってきたが、最後は「出口」から出るための門だったというわけだ。それで「園林遊戯地門」と言う。林の園に入って遊ぶという門だという。これをヒントにして親鸞は、「正信偈」で「遊煩悩林現神通 入生死園示応化」(煩悩の林に遊びて神通を現じ、生死の園に入りて応化を示す)と書いている。「煩悩の林」も「生死の園」も同じことのメタファーだろう。「遊び」の主語は阿弥陀さんだろう。阿弥陀さんが我々を救うのは、阿弥陀さんにとっては「遊び」なのだ。それは片手間ということではない。「遊び」とは、それが「したいことであり、できることであり、しなければならないこと」という意味が含まれている。
 天親菩薩は、これを「菩薩」の修するべき課題と捉えているが、親鸞は、人間のする行ではなく、すべて阿弥陀さんのする行だと受け取っている。阿弥陀さんとは、人間を助けるための誓願そのもので、それを主語として親鸞は読んでいる。天親菩薩の受け止めは、「人間」が念頭にあるので理解しやすいが、親鸞になると一気に分からなくなる。さらにそれを読む我々は分からなさを抱えながら読むことになる。天親菩薩は「人間」がするため菩薩道という文脈で書いているのに、その主体を「阿弥陀さんの誓願」として親鸞は読んでいるのだから、分からないのは当然だ。天親さんの文面は主語が「人間」でも、それを読む親鸞の眼は「阿弥陀さんの誓願」だから、本当の意味で、親鸞がそれをどのように読んでいたのかは分からない。ところどころに「えっ!そんなふうに読んでいたの!」とビックリさせられるだけだ。
 だから、天親菩薩の文章を読んでいる親鸞の眼を想像しながら、さらに自分の直感を頼りに読むしかない。そんな前置きをして、この「門」を考えてみると、「門」は「入口」であると同時に「出口」だと見ることができる。でもこれは不思議なことでも何でもない。我々が通常出入りしている「門」でも「玄関」でも「ドア」でもそうだが、「門」は「入口」と「出口」の両方のはたらきを持っている。(余談だが、「玄関」も仏教語だ。「玄妙なる関門」という意味だ)「入口」だけの門も、「出口」だけの門もこの世にはない。まあここのところのコロナ騒動で、デパートの「入口」が「入口専用」と、「出口」には「出口専用」と表示されているから、そうとも言えない。でもこれは人間が仮に名付けただけであって、本質は両面の役割を持っているのが、「門」である。
 親鸞の感じていたイメージ世界を完全には知ることはできないが、それを想像してみると、「門」には様々な味わいが生まれる。親鸞が比叡山にいた頃、「真如の門」に入ろうとして修行していたことだろう。「急作急修して頭燃を灸うがごとくすれども」(『教行信証』信巻)というのは、髪の毛に火の粉が降りかかろうとする、その火の粉を必死になって振り払おうとする焦燥感を表している。それが「入口」から入ろうと思っていた親鸞だ。ところが、それがあるとき、実は「入口」ではなく、それは「出口」だったと気づいたのだろう。そのヒントが第五門の「園林遊戯地門」にある「以本願力回向故」(本願力の回向をもってのゆえに)」だ。ここに「本願力の回向」という言葉があり、これを親鸞は「阿弥陀さんの回向」だと感動的に受け止めたのだ。天親菩薩は、どういう意味でこれを書かれたのかは、ちょっと分からない。菩薩の修行だけでは到達できないのだが、それが阿弥陀如来の回向力によって成就できると考えていたのかも知れない。だから回向の主体は「人間」であり、「阿弥陀さん」ではなかったのかも知れない。まあ果たして天親菩薩がどう考えていたかも、正確なところは分からない。ただ親鸞ほどに「機法の峻別」が鮮やかに表現されていないとだけは言い得るだろう。
 親鸞にとっては、「入口」から入ろうとして努力していたこと全体が、「入口」を遠ざけていたと気づいたのだろう。それは「信巻」でも、「菩提心」の問題として論じられていく。結論は、「菩提心」は人間から起こるものではなく、すべてが阿弥陀さんのひとり働きだという意味で「横超の菩提心」と言う。それに気づいてみれば、「入口」が、実は「出口」だったのだ。そもそも自分から入ろう、入れると思っていたこころが解体されて、もうすでに入っていたと自覚されたのだ。まあそれは「入門」を「入口」、「卒業」を「出口」と意味づけしたところからの味わいだ。
 問題は「入口」と「出口」は、二門ではなく一門ということだ。それはいままで二門だと決めつけていた意識が解体され、たったひとつの「門」が眼前にあったことに目覚める。「門」は「視座」のことでもあるから、「門」が自覚化されればよいのだ。
 また別の文脈で考えれば、「門」とは「浄土と穢土」の関門であり、「この世とあの世」の門である。「門」の向こう側は「真如法性界」だから、自分には分からない。その前に立つということは、「分からない世界」をいただくことだ。「分からない世界」とは、人間を不安にする世界ではなく、安心させる世界だ。それは「いただく」という知り方でなければ、安心には結びつかない。人間は「分からない世界」を、ミステリーとして不思議がって怖れるか、人間は能力が劣っているから分からないのだと劣等感で受け止めるかのどちらかだ。それはまだ「分からない世界」と「分かる世界」とが、キチッと裁断されていない。切れ味の悪い刃物で布や紙を切れば、その裁断面はぐちゃぐちゃになる。もっと切れ味の素晴らしい刃物で、一刀両断にスパッと切ってみれば、その切り口は見事に切断され、美しさすら感じられる。そこまで綺麗に裁断されなければ、「分からない世界」は、安心へと結びつかない。「分からない世界」が〈真実〉だと崇めることにはならない。
 まだまだ「門」のイメージは広がる。門前に立つひとは両手に「耳」と「口」とを持っている。これは、「門」の前にたたずみ、「これはいったいどういうことか?」と問うという意味だ。その問いをもって、門のところで、聞き耳をそばだてる。そうすると、門から真如法性の響きが聞こえてくる。聞くは、「聴聞」と言われ、「聴」は積極的に問いを立てて聞くという意味だし、「聞」はそのことを通して、「こういう意味だったのか」と聞こえてくるという意味だ。親鸞はそれを「聞思」という言葉で教えている。「聞」は「聴聞」、「思」は「思索」であって、この両輪が求道生活を成り立たせる。
それでこのひとは両手に「耳」と「口」を持っているのだ。
 自分は「入門」したと過去形で語れば嘘になる。だから一切衆生と「ヨコ並び」だ。ただ「門」が見つかったとだけは言えそうだ。「門」が見つかれば、「門」をくぐらずして「門」に入るということが起こる。まあ「出入り自由の門」が与えられるというのが、また「門」の妙味ではなかろうか。(『真宗入門』因速寺出版2022年7月23日発売、定価500円)