「自分が」生きているのか、「自分を」生きているのか。

そう問われれば、自分は「自分が」生きていると答えたくなる。しかし、それは幻想である。まず「自分」という確固たるモノがあって、それが生きているのではない。「自分」とは「自分」にまでなってきた、全生命史の集積であるから、「自分」というようなモノが初めからあるわけではない。様々な生命史の集積が、たまたま「自分」になってきたので、その「自分を」生きていると言うのが〈真実〉である。
 「自分」という思いは後、「自分」という身体が先にあった。誰しも、気がついてみたら人間に生まれていたのだから、身体が先に決まっている。ところが、ある時、それを勘違いしてしまった。
 「自分」という思いが見えていないと、その思いに支配され貪欲の猛獣となる。「親が、ある宗教団体に多額の寄付をしたために自分が不幸になった」というシナリオに洗脳され、その思いの奴隷になってしまう。
 まず「自分」という思いを問うてみなければならない。人間は「自分」というものを問うたことがないのではないか。もうすでにあるものだから、分かりきっていると思っている。しかし、それは〈真実〉の「自分」ではない。「貪欲の我」だ。「自分」という思いを中心にして、すべてのものを価値付け、欲を満たすために貪ろうとする。これを仏教は、「煩悩」と名付けたが、それは人間が見下げるような汚濁ではない。実に尊ぶべき精神作用だ。「煩悩」を見下げると、逆に「煩悩」の奴隷になる。「煩悩」を尊ぶと、「煩悩」は自分を教える「教材」に変化する。
「自分」がもうすでに分かったと思っているひとは、恐ろしい。〈真実〉は、「自分」など、「自分」には分からないほどに深く広いものだ。だから、「自分」ほど恐ろしいものはいないし、「自分」ほど尊いものもない。