「初め」をたまわる。これが人生の根本問題だ。自分の人生は、いったいどこから始まったのか。我々が自分の人生の始まりを考えるとき、必ず立ち帰るのが、「自分の誕生」だ。「誕生日」から自分の人生が始まったと思っている。そもそも、この世に自分が誕生したとき、それが何月何日だったと記憶しているひとはいない。生まれて、大分月日が経ってから、「お前の誕生日は〇月〇日だよ」と教えられて、知ることになる。だから、本当にその日が誕生日なのかは、自分で確かめることはできない。必ず、他者から教えられて知るのが「誕生日」だ。
それはともかく、自分の人生が「誕生日」から始まったとする見方は、自分の存在の原因を排除した見方である。自分が自分として誕生するためには、原因があるはずだ。この世は、関係性(縁)で出来上がっているのだから、モノがそこに有るためには、有るだけの理由が必ずある。だから自分の存在にも原因がある。それで善導大師も次のように言っている。
「もし父なくんば、能生の因、すなわち欠けん。もし母なくんば、所生の縁すなわちそむきなん。もし二人ともになくんば、すなわち託生の地失なわん。かならずすべからく父母の縁、具してまさに受身の処ある。すでに身を受けんと欲するに、自の業識をもって内因とし、父母の精血をもって外縁とす。因縁和合するがゆえに、この身あり」(『観経四帖疏』序分義)と。
善導は唐代のひとで、当時の生理学的知識で「誕生」を考えている。父を「能生の因」、母を「所生の縁」として、「託生の地」ができたという。ここまでは現代の知でも、その通りだと分かる。ところが次の「自の業識」が「内因」であり、父母の精血」が「外縁」であるという見方は納得できないのではないか。父母の関係がなければ自分は存在しないのだから、自分という「1」の存在は、父母という「2」の関係以外には成り立たない。お釈迦さんが発見した、「縁起」という見方は、あらゆるものは縁(関係)によって成り立っているという見方だから、「1」が「1」として成り立つには、「2」が必要になる。その「2」は更に分解されて「4」になり、「8」へと拡散していく。つまり縁(関係性)以外に、自己は成り立っていないことになる。
ついでに言っておくと、仏教は、「因・縁・果」という説き方をするが、これは物事を論理的に考えるための仮説であって、本当は「因」と言っているものも、「縁」以外では成り立たないのである。すべては「縁」、つまり、「縁によって起こる」、「縁起」が本質なのである。
しかし、善導さんは、その説を否定しているとも言える。父母を「外縁」と呼び、その他に「自の業識」を「内因」と考えているからだ。あらゆる「因」は、すべて「縁(関係性)」に分解されるという考えが仏教だとすれば、この考えはおかしいことになる。果たして、「自の業識」という言葉でもって、善導さんは何をイメージしていたのだろうか。
現代の科学では、胎児のDNAは、父母の合体で出来上がっていることを突き止めている。だから父の精子のDNAのみで胎児は出来上がってはいない。そうなるとやはり、自分という、「1」のいのちは、「2」へと解消していく。さらに遡れば、自分の30代前の先祖の数は十億七千三百七十四万一千八百二十四人にもなる。「自分」という存在が、徐々に解体されて、粒から粉へ微細化され、無に限りなく近づいていくイメージがやってくる。これは釈迦が直感した「無我」のイメージではないか。これが「自分」の本来性であり、いま個体として肉体化している「自分」は仮のものではないかというイメージだ。
それと善導さんのイメージは違っている。「自の業識」とは、決して縁起(関係性)に解消できない強固なイメージではないか。父母はあくまで条件であり、誕生は原因は「自の業識」以外ではないと。これは善導さんのイメージとは無関係かもしれないけれども、私は、縁起(関係性)により解消されてしまいそうな「自分」を、再度引き戻し、取り戻そうとしているように感じる。もし縁起(関係性)に解消されてしまったならば、「自分」という存在が「偶然」の出来事に還元されてしまう。その「偶然」の出来事を、もう一度、「必然」へと取り戻そうとしているのではないか。
「いま・ここ・私」という出来事が、「偶然」の産物ではなく、あくまで「必然」の出来事だと言いたいのだ。それが「自の業識」という言葉を使わざるを得なかった根拠ではなかろうか。
これは、『歎異抄』第13条で親鸞が、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という言葉を使ったことと同じことが起こっているように感じる。「さるべき業縁」とは、「あなたが、あなたとして、そのようにいまあることのすべては、そうならざるを得なかった必然性のはたらきであるから、いま、その必然性に促されてどのような行為が生まれてこようとも、それはその必然性のおのずからなる展開なのである」ということだろう。
ここには初めから、それが必然性だと受け取っているという余裕はないのではないか。どうしてもそれが必然性としては受け取れない自分がある。その自分が、向こうからやってきた必然性に説得され、やがてそのように受け取らざるを得なかったというニュアンスではなかろうか。最後の「いかなるふるまいもすべし」という表現には、そのような含蓄があるように思われる。だから「すべし」は、誰かが「そうしなさい」という命令の意味でもないし、「そうするものだなあ」と呑気に他人事のように受け取ることでもない。自分では、どこまでもそう受け取ることができないのだが、必然性に説得されて、最後には、そのように受け取るしかないのだというニュアンスだ。「偶然」が右往左往して、究極的に、「必然」へと収まったという感じだ。
そう受け取ることで、いままですべてにおいて無責任だった自分が、責任主体として統合されるのではないか。「偶然」は無責任を生むが、「必然」は責任を生む。そのように書くと、なんか一件落着したような安心感がやってくるが、それは違うだろう。自分はこの世の、すべての場面において無責任である。つまりすべての場面で、あらゆる出来事と自分は「偶然」に出遇うこと以外にない。自分の中にふつふつと沸き起こる怒りの感情も、また出会い頭の事故寸前の車同士の出遭いであってもだ。自分の内で起こる出来事も、外で起こる事故寸前の出来事も、自分にとっては「偶然」の出来事以外ではない。この世には、同じ事の繰り返しはないのだから、あらゆる場面が、自分にとっては、「偶然」が展開する場である。そのことに驚きたじろぎ、慌てふためいている自分が、必ずある。これをなかったように否定してはならない。この驚きたじろいでいる自分に、向こうから必然性がはたらきかけてくるというのが正確なところではないか。
自分の誕生の原因を遡れば、「偶然」以外にはない。しかも、その「偶然」はいま始まったことではない。何十億年にも遡れる。「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(『浄土和讃』)と言われるほどに遠い。しかしそれは「偶然」と同時に、「偶然」を「必然」として引っ繰り返そうとする歴史でもあったのだ。それが「いまに」という言葉に感じ取れる。自分の「初め」とは、十劫のはるか昔からの歴史のすべてであり、またそれが必然性へと引っ繰り返された〈いま〉のことだったのだ。この「偶然」を「必然」へと引っ繰り返す運動そのものが「永遠」のはたらきではないか。
自分は「永遠」から誕生したものであり、〈いま〉「永遠」を生きているものでもある。次の瞬間には終わっているいのち。そのいのちが必然性に照らされる〈いま〉こそが「永遠」なのである。この「不可思議」なる大海原のうえを漂う一枚の葉っぱ。それが自分という存在だった。
自分の「初め」は、「永遠」であり、必然性で出来上がっている〈いま〉を引っ繰り返せば、「永遠」が生々しく展開している。果たして善導さんのいう、「自の業識」が、そういうイメージだったかどうかは分からない。ただ私が阿弥陀さん経由で、その言葉から受け取った印象を述べただけのことかもしれない。