お余りとしての〈いま〉

「不思議の国のアリス」の最後の場面が印象に残っている。もちろんウォルト・ディズニー版のアニメ作品だが、アリスがハートの女王たちに追われ切羽詰まった場面だ。逃げようとしているのだが、ドアが開かない。早くドアを開けて、ここから逃げ出さないと捕まってしまう。アリスは必死になってドアをこじ開けようと、ドアノブを両手で力一杯引っ張っている。そのときドアノブがしゃべるのだ。「あんたはもう外だ!」と。そう言われて、アリスは鍵穴から外を覗く。すると木に持たれ掛かって眠っている自分の姿が見える。そこでアリスは「起きて!アリス!起きて!」と必死に叫ぶ。するとアリスは目を覚まし、いままでのことがすべて夢だったと分かりホッとする。
 なんだ夢だったのかと覚めてしまうえば、「不思議の国のアリス」は取るに足らない、つまらない寓話のように感じてしまう。だが、私はこれは単なる夢以上の、我々に大切なことを教える教材として受け止めている。
 それは「信仰の関門」としての教材である。アリスは必死になってドアをこじ開けようとしている。これは「浄土」を求め、救いを必死になって求めている姿である。頭に火の粉が降りかかってくるのを、必死になって振り払おうとしている親鸞の姿とダブって感じられる。ここから早く脱出しなければダメだと必死になっている。
 しかし、ドアノブは言うのだ。「あんたはもう外だ!」と。つまり、もう「浄土」の中にいるんだよと、そのことに目覚めなさいという促しだ。もともと「浄土」の中にいるのに、そこからあんたは脱出しようと藻掻いていただけで、本来は「浄土」の中にいたのだと。
 これは弟子の唯円が、「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかに」(『歎異抄』第九条)とため息を漏らしたことともダブって感じられる。念仏を称えても、喜びが感じられないし、浄土へ往きたいというこころも起こらないのは、いったいどうしたことなのでしょうかという問いだ。唯円は自分は、「浄土」の中にいたつもりが、そうではなかったと漏らしているのだ。やっぱり、「浄土」の外にいたのかと落胆している。
 それに対して師の親鸞は、「よろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもいたもうべきなり。」と答えている。本当は喜ばなければならないのでしょうけれども、実際には喜べないからこそあなたは救われているのだという応答だ。唯円は喜べないから、自分は「浄土」の外にいると思っていたが、親鸞は喜べないから「浄土」の中にいると答えている。親鸞は「あんたはもう外だ!」としゃべったドアノブと同じ事を言っている。
 ここには「時間の逆流」が起こっている。唯円は、自分がかつて喜んでいたことが体験として凝固してしまっていた。「かつて」とは「過去」のことだ。「かつて」自分はドアの外に、つまり浄土の中にいたと思ったのだ。しかし、それが親鸞に於いては、〈いま〉のこととして受け止められている。〈いま〉よろべないのは、喜ぶべきことを喜ばせない作用が、〈いま〉起こっているからだと。その作用のあるところが「浄土」なのだから、喜べないのは頼もしいことだと言っている。南無阿弥陀仏は、人間に喜びをもたらすものかどうかは分からない。ある時には喜びに感じられても、またあるときには喜びに感じられないこともある。それはすべて阿弥陀さんの仕事だから、人間の自分とは無関係だと親鸞は思っている。南無阿弥陀仏に触れたとき、人間には様々な感情がやってくる。でも、どんな感情がやってきても、それは人間の自分がコントロールすることはできないと、最初から投げ出している。
 南無阿弥陀仏は、人間にどのような感情が起こっても、それとは無関係なところにある。だから人間が「かつて」と思うことも、じつは〈いま〉のこころの中で「かつて」と思っているだけのことだ。南無阿弥陀仏は「過去」も、そして「未来」も、〈いま〉の中に逆流させてしまう。〈いま〉以外を生きられない存在に変えてしまう。
そうそう、分子生物学者の福岡伸一さんが、人間の「記憶」ということについて、次のように言っていた。「人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、『想起した瞬間に作り出されている何ものか』なのである。つまり、過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。」(『動的平衡』木楽社)と。
 私は、「記憶」というものが、ビデオテープのようなものに記録されていると思っていたから、これを読んだときビックリした。しかし、分子生物学者が人体というもののメカニズムを解明したところの知見だから、納得せざるを得ない。確かに、脳の細胞も新陳代謝をしているようだから、何十年も前の「記憶」を、そのままに溜めておける場所はないらしい。そうなってくると、ますます「記憶」というものが不思議に思えてくる。「記憶」が「想起した瞬間に作り出されている何ものか」とは、いったいどういうことなのだろうか。福岡さんは、「過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。私たちが鮮烈に覚えている若い頃の記憶とは、何度も想起したことがある記憶のことである。」と言われるのだが、それを我々はそのまま納得できるのだろうか。「過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態」とは、どういうことなのだろうか。我々が「懐かしい」と思えるのは、必ず「過去」のことを考えている〈いま〉の状態だと。たとえ脳がそのように動いているとしても、我々の意識は、それが「今、懐かしいという状態」とは思えない。人体のメカニズムとしては、確かにそう考えなければ納得できないことが起こっていると言われても、実感が持てない。それは我々が、どうしても、「過去・現在・未来」がキチンと並んでいる「通時的時間論」という秩序を手放したくないからなのではなかろうか。「客観的記録」という面から言えば、「通時的時間論」は有効だが、自分が生きるという面から言えば、必ずしも有効とは思えない。なぜなら、「過去=誕生」→「現在=生活」→「未来=死」という「絶望論」に当てはめられてしまうからだ。
 福岡さんの言う、「過去とは現在のことであり」ということは私なりに納得できる。どんな「過去」であっても、「過去」のことを、「過去だ」と考えている時は、〈いま〉以外にないからだ。「過去」も「未来」も〈いま〉の内容になる。それを、「いまだけがよければ、それでよいのか」と批判するひとがいるが、それは、〈いま〉を「刹那のいま」、つまり「通時的時間論」の中で考えているひとだ。そのひとは、「過去」→「現在」→「未来」という秩序をむさぼりたいのだろう。しかしそんなひとには、「〈いま〉以外を人間は生きられますか」と問い返すしかない。
 これも何度も言っていることだが、もっと厳密に言えば、人間には〈いま〉を生きることはできない。人間が〈いま〉と言えば、それはすべてが「過去」のことになってしまうからだ。「いまは何月何日の何時何分だ」と言った途端に、それはもう過ぎ去ってしまった時間のことになってしまう。人間には「流れる時間(通時的時間論)」として秩序づけなければ納得できない煩悩を持っているからだろう。そうなると、本当の意味で、〈いま〉を生きられるのは阿弥陀さんだけだ。その〈いま〉を生きている阿弥陀さんから、お余りとして、〈いま〉をお裾分けしてもらっているだけなのだ。
 阿弥陀さんは、我々が済んだことにして、しまい込んでいる「過去」を、「まだ始まっていないぞ」と、全部引っ繰り返して下さる。「まだ始まっていないぞ」というのは、すべてを「過去」にしまい込もうとする知を解体し、「過去」を「過去」という軛から解放する。それが、お余りとしての〈いま〉だ。
 人間にとっては、永遠に見ることのできない純粋な〈いま〉を与え続けるのが、阿弥陀さんなのだろう。果たして自分は、すでに、この世に誕生したのだろうか。「誕生した」という「過去」の思いがあるだけで、〈ほんとう〉はまだ生まれていないのかもしれない。これは面白いことになってきた。