「何もしなくてよいのか」という問い

『歎異抄』第四条の末尾には、「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」とあって、いつもここを読むときには、『歎異抄』の深淵を覗かされる感じがする。第四条は「慈悲」がテーマで、冒頭から、「慈悲に聖道・淨土のかわりめあり」と二つの慈悲を提起する。そこから二つの慈悲について説明が始まる。「聖道の慈悲というのは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。」と。これは私たちが実感している愛情のことだから、よくわかる。しかし次には「しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし。」と、この愛情の限界を説く。人間が思うように愛する者を助けることができるのであれば問題はないが、人間にはどうしてみようもない限界がある。この世には事故や病や死が厳然としてある。人間の「おもうがごとく」に相手を愛し助けることのできない悲しみを感ぜざるを得ない。
 次には、そこから一転して、「淨土の慈悲」が語られる。「淨土の慈悲というは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもって、おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり。今生に、いかに、いとおし不便とおもうとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」と締めくくる。
「浄土の慈悲」というのは、「あなたがまず、念仏して、仏と成って、大いなる慈悲心で、思うように愛する者を救うことができることを言うのである。いま、あなたがどれほど愛おしく可哀想だと思っても、ご存じように、助けることができないのだから、聖道の慈悲はいつでも、どこでも、誰にでもはたらく慈悲ではないのだ。だから、いつでも、どこでも、誰にでもはたらく阿弥陀さんの促しに身を明け渡すことだけが、一貫した慈悲心なのだ」と訳してみた。
 この第四条が語られた場面(意味場)は、どのような場だろうか。私は、愛する人を亡くし悲しんでいるひとを目の前にしての、親鸞の発言ではないかと想像している。だから「聖道の慈悲」は無意味であって、「浄土の慈悲」こそが本当の愛なのだと説得しているようには見えない。
 だからこの「かわりめ」とは「聖道の慈悲」に挫折し、「浄土の慈悲」へと悲しみが深化したことを述べているように思う。決して目の前に二つの慈悲があり、どっちが正しいかという問題ではない。
「聖道の慈悲」とは、自分から他者へというベクトルなので分かりやすい。ライトを自分から他者に向かって発射しているようなものだ。しかし、「浄土の慈悲」とは、阿弥陀さんからのベクトルなので、ひかりが向こうから自分に向かってくる。だから自分にとっては、それがまぶしすぎて見ることができない。そこで、そのひかりに背を向けることになる。するとそのひかりに自分の背中が温められ、それと同時に他者もひかりに包まれていることが見えてくる。
だから、「浄土の慈悲というは」からの文脈は逆光に世を向けたところからの描写と理解しなければならない。つまり、自分から他者を助けようとする意志そのものが断絶され、自分も他者もともに助けられていくという文脈である。
そこにある「おもうがごとく衆生を利益するをいうべきなり」は、仏と成った自分が思うように他者をたすけることができるという意味だ。しかし、それもこれも自分が仏に成ったときの話であって、凡夫の自分は、そんなことはできないという自覚を揺るがせてはいないのだ。
 だから末尾の「しかれば、念仏もうすのみぞ、すえとおりたる大慈悲心にてそうろうべきと云々」は、自分が南無阿弥陀仏と発語するという意味に限定してはならない。これは自分という思いが完全に仏の前に明け渡されたことを述べているのだ。自分から他者へという愛のベクトルが断念させられて、自分も他者もともに阿弥陀さんの慈悲に包まれたことを述べているのだ。この「念仏もうすのみぞ」というのは、そういう阿弥陀さんの慈悲に包まれたときに、思わず口から南無阿弥陀仏と漏れることもあるだろうけれども、必ずそうなるとは限らないということでもあるのだ。だから、五木寛之さんが、「では、ただひたすら念仏申すのみでいいのか。」、「聖道門のいう慈悲は完全なものではない、けれども不完全なものであってもそれはやったほうがいいんじゃないか、と私たちは考えます。ボランティアで駆け付ける人、義援金を送る人も、きっとそういう気持ちだろうと思います。しかし、親鸞が言っているのは、それでもって彼らを十全に救うことなど絶対不可能である、ただ一端を果たしたことで自分たちが何かいいことをしたと思う危険性を語っているのではないでしょうか。」(『私の親鸞』p142)と考えるのも無理からぬことだと思う。彼も「いつも引っ掛かるのです。」(p141)というのだが、私もそんな気持ちがある。何回読んでも、この箇所は、私の「こうすれば、ああなる」という思いをはぐらかしてくる。
 なぜ、そうなるかと言えば、それは芹沢俊介さんの言葉で言う、「する」(doing)の文脈を引っ繰り返されるからだろう。「こうすれば、ああなる」という発想が、まさに「する」(doing)だが、この発想ではまったく歯が立たない場に立たされるからだろう。五木さんが「いつも引っ掛かる」というのは、その「する」(doing)の断末魔のあがきなのだ。「淨土の慈悲」からの文脈は、この「する」(doing)が解体され、自分から「する」のではなく、向こうから「されている」という文脈が開かれるところに成り立つのだ。
 阿満利麿さんは、「念仏を積み重ねていると、『念仏が私たちを慈悲の実践に向かわせる』のです。」、「『念仏以外の行いをしなくていい』『念仏以外は意味がない』と批判するのは、大変な間違いなのです。反戦運動も環境活動も、阿弥陀仏の慈悲心に支えられた現実世界の中での慈悲の実践です。念仏をしているからこそ、私たちはそのような活動に向かわされるのです。」(『歎異抄にであう 無宗教からの扉』NHK出版、p137)とまでおっしゃる。まあ阿満さんが、そのようにお受け取りになるのは尊いことだし、そのことを否定するつもりも、また否定する権利も私にはない。ただ『歎異抄』が、ここで問題にしている意味場は、その理解とはズレているように思える。念仏すると、必ずひとは反戦運動に向かうようになるという理解はどうなんだろうか。そう思えないのは、お前が「念仏を積み重ねて」いないからであって、「積み重ねていると」、そのように思えるのだとおっしゃるのかも知れない。
 当然、南無阿弥陀仏は反戦の精神そのものだから、それがひとをして動かすこともあるだろう。しかし、それが「念仏を積み重ねていると、『念仏が私たちを慈悲の実践に向かわせる』」と言い切ってしまうと、どうなのかと思ってしまう。そのひとが反戦活動に参画するどうかは、「さるべき業縁」(第13条)にまかされていることであって、それを人間が「念仏をすれば、反戦活動をするようになるのだ」と言い切ってしまうと問題があるように思う。阿満さんの意味場は、どこまでも、「する」(doing)にあるように感じてしまう。
 思えば、親鸞が発見した「如来回向」という発想に、親鸞のすべての言葉は収斂されていく。「こちらから向こうへ」という「する」の文脈ではなく、「向こうからこちらへ」という発想の逆転だ。この「向こうからこちらへ」というひかりが届くと、「する」は無化される。こういうふうに言ってしまうと、またぞろ、「念仏だけをしていればいいのか、他に何もしなくてよいのか」という批判がやってくる。その批判の出所は、「する」(doing)を起源にした発想だ。『歎異抄』は、この「する」という発想の無化だから、その批判の意味場とはズレている。この「する」という発想をそのまま温存させて、無理矢理に念仏と合体させると、「念仏が私たちを慈悲の実践に向かわせる」と言い切ってしまうことになる。どうしても、人間は念仏を何かの役に立てたくなるのだ。蓮如が「他宗には、親のため、また、何のため、なんどとて、念仏をつかうなり。聖人の御流には、弥陀をたのむが念仏なり。」(『蓮如上人御一代記聞書』180番)と批判されているのも、焦点はその辺にあるのだろう。
 私も阿満さんのように、「念仏が私たちを慈悲の実践に向かわせる」と言いたいのだ。そう阿満さんが言いたくなる気持ちも十分に分かる。しかし、それを、そのように言わせないはたらきがあるのだ。それを人間が言ってしまうと、越権行為なのだ。自分においては、そのように受け止められるというところまでしか言えない。すべてのひとが、そのようになるはずだというのは、阿弥陀さんだけしか言えないことなのだ。前にも言うように、「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし。」(『歎異抄』第13条)ということが、人間の言える最後の言葉なのではあるまいか。