久しぶりに京都・東本願寺(本山)へ行ってきた。私は階段を登って、御影堂内に入った。するとすぐに御影堂の匂いが感じられる。この匂いが何とも言えず、好きだ。とても口では表現できない匂いだ。この匂いを嗅いだ途端に、私は「ああ本山に来たのだ」と落ち着く。この匂いがなければ、御影堂は御影堂らしくない。堂の真ん中には「親鸞座像」が安置されているのだが、この像以上に匂いが大切なのだ。
この匂いを嗅ぎながら、「親鸞座像」と対面した。対面といっても、距離があるからお顔はよくは見えない。対面することで、様々な感情が自分にやってくる。どの感情も、本当だ。これを私は「親鸞との対話」と呼んでいる。私以外にも、時々、そのように対話されている方を見かけることがある。堂の中央で正座し、親鸞と対座している後ろ姿を見ることがある。まあ御影堂は親鸞との対話の場所なのだ。
今回も対話したのだが、今回は、あの「親鸞座像」が自分ではないかと思えた。自分が親鸞であってもよかったわけだ。さまざまな縁が熟して親鸞は親鸞になったのだが、それは私も同じだ。縁が違うだけであって、私が親鸞であり、親鸞が私であってもよかったのだ。これは私の傲慢であって、ご無礼なことを申し上げているという意味ではない。縁の事実を申し上げているだけだ。これを敷衍して言えば、木にとまっている鳩が私であってもよかったし、私が鳩であってもよかったのだ。たまたま縁が違って私とことなった生き物として、そこにある。親鸞も同じだ。それでなければ、「私の信心と親鸞の信心はひとつです」などとは言えないのだ。それを違った言い方で言えば、私の中には親鸞的部分が混在し、親鸞の中にも私が混在していることになる。「一切衆生悉有仏性」と涅槃経が言うのは、そういう感性ではないか。私は他の生物や人間と根底では融通している。たまたま他の生物とは異なった「特殊な存在」になっているが、根底ではつながっているのだ。だから親鸞と対話することは、私の中の一部分と対話することでもある。私の中の一部分が、いま堂の中央に安置されている。そんなことを考えていたら、「皆さん、そんなに私を拝まなくてもいいよ」と言いたくなってきた。いやいや、あの親鸞は皆さんの一部分でもあるのだから、それこそ、そんなことを言うのは傲慢なことなのだ。
「また来ますね」と言って、堂を後にした。