阿弥陀さんの「せっかち」

私も「せっかち」だが、私以上に「せっかち」が阿弥陀さんだ。親鸞も「頓の中の頓、真の中の真、乗の中の一乗なり、これすなわち真宗なり。」と化身土巻で述べている。この「頓の中の頓」というのが、それだ。「頓」とは「たちまち」という意味だ。徐々に階梯を経てではなく、一気に超えていくことだ。親鸞はこれを「横超他力」だと言っている。「頓の中の頓」は、昨日書いた「零度の時間」のことだろう。決して我々が経験している時間の早さに還元できない時間だ。
以前、「宇宙の缶詰」を尾辻克彦が作った。普通の缶詰なのだが、中身はすべて食べてしまって空洞になっている。普通は缶詰の缶の外側にラベルが貼ってある。しかし「宇宙の缶詰」はラベルが内側に貼ってある。つまり缶の外側が、この缶詰の内になり、缶の内側が外になる。これで宇宙を缶詰にしたという「宇宙の缶詰」だ。これは面白かった。でも理屈から言えば、間違いない。宇宙を閉じ込めるには、宇宙大の缶詰は必要ないのだ。宇宙と接していて宇宙を閉じ込めるのだから、小さくてよい。もっと言えば、宇宙大の缶詰で宇宙を閉じ込めたとして、それをギューッと小さくして、くるりんと内側と外側を引っ繰り返してしまえばよいのだ。そうすることで、宇宙を閉じ込めることができる。こうなると、「ここ」以外に宇宙の中心がなくなる。
彼は「空間」を閉じ込めたのだが、私は「時間」を閉じ込めてみたくなった。いままで「流れ」としてイメージしていた「時間」を、「不流」として。過去も未来もすべて「不流」の缶詰に閉じ込める。「時間」が「流れないもの」だとしたら、一気に「いま」が輝き出す。そして、「さあこれから」、と未来に期待するこころが砕かれる。砕かれると、「すでにして」、という「時間」が開かれる。親鸞の「すでにして悲願います」(化身土巻)だ。そして「時間」が逆流する。いまから未来へと流れる時間が、未来からいまへと逆流してくる。過去からも流れてくる。如来回向の〈いま〉へと流れてきて、〈いま〉を満たす。そして絶望道の物語が、往生道の物語へと転換される。
〈いま〉がすべてだ。〈いま〉の中に「過去と未来」を缶詰にできた。こうなると、この〈いま〉は、いわゆる「永遠」というものと融通してくる。親鸞の言う「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(浄土和讃)だ。この〈いま〉が開かれると、この世の秩序が崩れる。「前が後ろで、昨日が明日。私があなたで、あなたが私。生きるが死ぬで、死ぬが生きる」になる。これは面白いことになってきた。この〈いま〉にすべてがあり、「ここ」にすべてがある。人間にとって、最大の関心事は、〈いま〉・「ここ」以外にない。
 阿弥陀さんの「せっかち」に促されて、「せっかち」の片鱗を、私はいただいていたのか。