「零度の時間」を発見すると、我々の「時間」は「物語」に変化する。我々の感じている「時間」とは、流れる如きものだ。これはもともと人間が受け取った範囲内の「時間」という意味現象であって、〈ほんとう〉の時間ではない。〈ほんとう〉の時間を人間は生きることができないと解体されて、初めて「時間」は流れないと目覚める。仮に「いま」と口走れば、「い」と「ま」の間には時間的ズレが生じる。時間は絶えず流れ続けているものだから、人間は、〈ほんとう〉の〈いま〉を捉えることはできない。つまり〈いま〉を生きることはできない。生きられるのは、「過去」と「未来」に引き裂かれた時間のみだ。それでも、それが幻想だったと解体されなければ、それが〈ほんとう〉の時間だと錯覚して生きなければならない。これは「誕生」(過去)から始まって、「死(未来)」で終わるような人生観になる。
だから、人間は「零度の時間」を、深層では切望しているに違いない。高齢者が全人口の四分の三近い数になっているとか。まさに「誕生」で始まって、「死」で終わる絶望道を生きているひとが、何千万人もいるのだ。これは恐ろしいことだと感じてしまう。いまこそ、「零度の時間」が、〈ほんとう〉の時間だと目覚めるときである。人間には生きることの出来ないものが、〈ほんとう〉の時間だと目覚めるときである。そこは〈ほんとう〉の時間であり、〈ほんとう〉の世界である。「零度の時間」に目覚めると、いま生きている幻想の時間が「物語」の時間に変化する。「物語」だから、いくらでも書き換えられる。この世に固定的なものは一つもない。すべてが「物語」だから流動的だし変動的だ。
この「物語」は、「零度の時間」から生まれてくるものなのだろう。〈ほんとう〉を知らないという安心感から生まれてくるものだろう。〈ほんとう〉の「時間」は流れない。こんな素敵なメッセージを聞きながら、眠りに就くことができる。