阿弥陀さんは、人間に何も要求しない。ところが親鸞は「『帰命』は本願招喚の勅命なり。」と言っている。つまり、「『おまかせ』は阿弥陀さんが『まかせよ!』と呼びかける絶対命令だ」という意味だ。こうなると阿弥陀さんは「まかせよ!」ということを人間に要求しているように見えてしまう。阿弥陀さんは「無条件の救い」を誓っているのに、「まかせよ!」という条件を要求しているように見える。これは矛盾しているのではないかと思ったが、それは違うのだ。
阿弥陀さんは「無条件」のみを「条件」としているということだ。我々は、阿弥陀さんが「条件」を要求しているように見えてしまうのだが、本当は「無条件の救い」を要求しているのだ。阿弥陀さんの「無条件」に共鳴するのは、人間の「無条件」なのだ。「無条件」という「条件」なのだ。人間が叶えることのできる「条件」を阿弥陀さんは要求していない。もし要求していたら、「無条件」が嘘になってしまう。阿弥陀さんは人間に「無条件」を要求する。しかし、「条件」だけで生きている人間に、「無条件」は成り立つのだろうか。そう問えば、それは成り立たない。決して成り立たないところに「無条件」を成り立たせようと誓う。そして「条件」が揃わなければ満足しない人間のこころに寄り添う。
阿弥陀さんは、人間に何も要求していなかったのだ。何も要求しないという大いなる誓いを起こされていたのだ。だから「念仏」も「信心」も「条件」にはならないのだ。何も要求しないという誓いには、何もしないという人間のこころ以外には響かない。人間に何も要求しないという大いなる悲愛に、もともと包まれていたのが私だった。