汝、悪人よ

NHKの「こころの時代」で阿満利麿さんの『歎異抄』をやっていたので観た。阿満さんを、久しく拝見していなかったので、ずいぶん老けたなあという印象がまずやってきた。まあそれはどうでもよいことだ。ちょうど、「悪人とはだれか」というテーマだったので、拝見した。全体の印象は、やはり阿満さんらしいいただき方だと思った。まあ一言で言えば、仏さんのいない話だった。つまり仏さんがいないということは、自分が見つかっていないということだ。自分が見つかっていないということは、そのまま「悪人」が見つかってはいないということだ。
番組の初めで、阿満さんは、一般社会で言われている法律的とか、道徳的な基準に照らした「悪人」と『歎異抄』の基準は違うと言われていたので、この部分はそのとおりと思った。そこから、『歎異抄』の言う「悪人」とは、自分の意志に反して、「業縁」次第ではいかなる悪をも犯す存在で、「宿業」を生きる身の自覚だと言われていたように聞こえた。最後は人間の罪の重さに沈んでいくような印象を受けた。だから、底が抜けていないなあと感じた。親鸞の言う「三世の重障みなながら かならず転じて軽微なり」という軽やかさがなかった。
 『歎異抄』の言う悪人とは、阿弥陀さんの呼び声であって、人間が本来使うことのできない言葉なのだ。だから『歎異抄』で「悪人」と記されているのは越権行為なのだ。越権行為だと分かったうえで使われているのだ。あくまでこれは阿弥陀さんから、私一人が聞かなければならない「教え」なのだ。人間が、人間自身を反省して、いくら罪業が深いとか言ってみたところで、それは人間の受け取った世界の中でのことだ。人間が受け取ってしまえば、それは「悲観」か「楽観」しかない。絶望するか慰撫するかだ。その全体を阿弥陀さんから、「汝、悪人よ」と呼びかけられているのだ。
 『歎異抄』の言わんとする「悪」とは、表層と深層がある。表層の「悪」は「五逆」が象徴する倫理的な悪である。しかし、その悪が引き起こされてくる深層の悪とは「自力のこころ」のことなのである。つまり、謗法だ。謗法とは、内面で、「神も仏もあるものか。仏さんなんかいなくても自分はちゃんと生きていけますよ。」と思っている「思い」のことである。我々が生きているのは、この「自力のこころ」以外ではない。それが「悪」だなどとはまったく思っていない「思い」のことだ。
 しかし、それが根本的な悪であり、その存在を「汝、悪人よ」と呼びかけてくださるのだ。だから、『歎異抄』の「悪人」は阿弥陀さんのいないところでは成り立たない言葉なのだ。しかも、その呼び声を聞いても、一向に自分の自覚にはならない呼び声なのだ。「悪人は自覚の言葉だ」と言うのは、おおざっぱな見方だ。まあそれに違いないのだが、厳密に見ると、間違いだ。もし「悪人」が人間の自覚になってしまったら、阿弥陀さんの呼び声が聞こえなくなる。決して自覚にはならないから、阿弥陀さんは四六時中、「汝、悪人よ」と呼びかけて下さるのだ。だからその意味で「悪人」などは、どこにもいないのだ。この世に存在しているのは、「疑心の善人」だけだ。
この「善人」を、「汝、悪人よ」と叫び続けておられるのが、阿弥陀さんだ。プーチンにも、そう呼びかけているに違いない。