私が問題にしてきたのは、「信仰的身体の親鸞」であって、「史実的身体の親鸞」ではない。
「史実的身体の親鸞」は、彼がいつどこで何をし、何をを語り、何を書いたかというこのへの関心だが、私は、それへの関心はあまりない。まったくないわけではもちろんないが、それはあくまで二次的な関心だ。
なぜなら、彼がそうしたことの理由を、私がいくら詮索しても、最終的には、分からないからだ。
なぜ比叡山を降りたか、なぜ法然の元に行ったのか、なぜ「唯徐の文」の解説を書かなかったのか、なぜ63歳ころ関東から京都へ帰ったのか、またなぜ恵信尼と妻帯したのか。それらの疑問に、決定的な答えは見いだせないからだ。
「悪人正機」説の発想は、もちろん法然から聞いた思想だろうけれど、それを彼がどう受け止めたのかなどと言うことも、最終的には分からないことである。彼が受け止めた断片が、そこに散見されるだけである。
それらはすべて「史実的身体の親鸞」への関心だ。私の関心のある、「信仰的身体の親鸞」は、それとは別のところにある。
「信仰的身体の親鸞」とは、彼個人とは違うところにある。つまり、阿弥陀さんの「真実の信仰」に適う人間であれば、おそらく、こういうふうに考えるのではないかとイメージされたところにある身体だ。だから、その身体に「史実的身体の親鸞」が合致しているかどうかは、関心の外になる。
たとえば、「悪人正機」の「悪人」とは、第三者を想定した救済論ではなく、自己が阿弥陀さんから命名された呼び声であり、それが聞こえたことが救済なのだ、と考えるところにある身体でる。
親鸞にとって、「悪人」などは何処にもいないのだ。いるのは「疑心の善人」だけである。善人とは、自分のことを決して悪人とは思えない存在のことだ。まあ歎異抄では、「善人」は、「自力作善のひと」と出てくる。
つまり、「自己と他者」という相対的な意味場ではなく、「自己と阿弥陀さん」との絶対的な意味場で成り立っている言葉が、「悪人」である。こんなことは「史実的身体の親鸞」は、どこにも言っていない。これは「信仰的身体の親鸞」以外には言えない。
これは『教行信証』をどう読むかということでも言える。これは親鸞が書いているのだから、間違いなく親鸞の意図が反映されているに違いない。しかし、我々が、その文字を見て、そこから逆算して親鸞の意図を結論づけることはできない。
それは、「親鸞がこう言いたかったのではないか」、「これは親鸞が言いたかったことに間違いないことではないか」と、我々が推測する域を出ない。
それが果たして、「真実の信仰のフォルム」に重なっているかどうか。それだけが私の関心である。私は、「真実のフォルム」の断片しか人間には表現することができないと思っている。たとえ、釈迦であっても、親鸞であったもだ。
だから「悪人正機」はもともと法然の思想であり、親鸞に発想の始発点はないと言われることについても、それは言える。確かに法然にも似た表現はあるが、それが問題とされている意味場は親鸞とは違う。法然の意味場には、「自分が悪人である」という認識はない。たとえばここに悪を犯した人がいて、そのひとが往生できるのかどうかという意味場で論じられている。善人は自分の自助努力でなんとか往生することができる存在だが、悪人は箸にも棒にもかからない存在なのだから、彼の方が善人よりも阿弥陀さんは哀れみ悲しみ往生させてあげたいと思うはずだ。だから善人よりも悪人の方が往生の正機なのだと考えるのが法然の意味場だ。「親鸞」の意味場は常に、「自分」を抜きにはしない。この親鸞も「信仰的身体の親鸞」だから、「史実的身体の親鸞」ではないと断っておく。この「信仰的身体の親鸞」は、常に「自分と阿弥陀さん」という絶対関係の中で生きている。この意味場における「悪」とは、倫理道徳的な悪事は枝葉の悪であり、本質は、阿弥陀さんに背くということだと見ている。「神も仏もあるものか」と絶望的に考える思いが、本質の「悪」である。仏教語で言えば「謗法」である。この「謗法」の者に向かって阿弥陀さんは、「汝、悪人よ」と呼びかけて下さる。ここに「悪人」という言葉が成り立つ。それも人間における「悪人の自覚」を徹底的に排除して成り立つ。「悪人」は阿弥陀さんの呼び声であり、つねに阿弥陀さんに属する言葉である。これが人間の自覚などになってしまったら、阿弥陀さんの呼び声は無駄になってしまうではないか。
しかし、そんなことはお前の考えであって、親鸞聖人はそんなことは言っていないではないかと批判されそうだ。まあそう批判するひとは、「史実的身体の親鸞」だけが親鸞だと思い込んでいるひとであることは間違いない。「信仰的身体の親鸞」は、「真実のフォルム」の断片のところにしか現れない。そしてこの「真実のフォルム」は、誰かにしか成り立たないようなものではなく、それこそ誰においても通じるものである。だから、「真実のフォルム」の断片に触れたとき、人間はハッとして感動し、真実をどこかで感じることになる。親鸞もこの「真実のフォルム」の断片を何とか言葉にしようとされてきたひとである。しかし、まだフォルムの全体像を表現してはいないのだ。また永遠にフォルムを表現し尽くすことは不可能なのだ。真実のフォルムは無尽蔵だからだ。