「安田理深先生もお気づきでしたか!」と内心で叫んでしまった。それは『歎異抄』第2条の「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。」についての受け取りだ。
先生は『教行信証』信巻の講義で、まず「三一問答」を取り上げて話されている。原文には、こうある。「 問う。如来の本願、すでに至心・信楽・欲生の誓いを発したまえり。何をもってのゆえに論主「一心」と言うや。答う。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまうといえども、涅槃の真因はただ信心をもってす。このゆえに論主、三を合して一と為るか。」(問いたい。阿弥陀如来の本願、中でも第18願文には三心(至心・信楽・欲生)の誓いを発されているが、どういうわけで曇鸞大師は、それを「一心」と受け止められたのだろうか。答えたい。それは愚かな衆生が理解しやすいために、阿弥陀如来は三心を発されたと言われるのだが、それは、救いの必須要因が、ただ「如来回向の信心」ひとつだというを示されているのだ。こういう理由から、曇鸞大師は如来の三心を一心という言葉で頂かれたのではなかろうか)
この文末には「一と為(せ)るか(歟)。」と「歟」が付いていることに注目して、「多分そうだろうという歟という字が置いてある。『三を合して一と為(せ)ん』なりと言うよりももっと確信をもって、多分そうだろうと、間違いあるまいと歟という字を置いてある。疑問の言葉で表して疑問をおこす余地のないことを歟という字は表すのです。ちょうど『歎異抄』の第二章に「弥陀の本願まことにおわしまさば」と書いてある。おわしませばではないのです。まことだとするならばです。仮定的に表してある。まことなるが故にではない。まことにおわしまさばと書いてある。それから続けて『釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。』と書いてある。このように「か」とある。べきなりというのはこういうような気持ちなのです。往相の信心と名づくることも出来るではなかろうかと。やはり「か」です。こういうように非常に謙譲に表してあるのです。そしてそこに間違いあるまいという確信を却って疑問の形で表してあるのです。私はそういただいていると。」(『親鸞における救済と自証』第五巻p231〔1978年3月16日〕)
そして、その翌月〔4月1日〕の講義でも、そこに触れて、「私の言っていることもまんざら間違いというわけでもないではないでしょうか、と言ってある。かというので、弥陀の本願がまことなるが故にとは言わないで、まことならばと言ったのでしょう。つまり仮定文です。その仮定ということは当然そうだということです。自分の方から当然そうだと言わなければならない。聞く人が当然そうだと、頷いていく。そうでないと自分の方から当然そうだと言ったらおしつけになる。無論そうだという具合に答えが出てくるでしょう。つまりそういうことを出すために、そうではないでしょうかと言う。大きな確信があるというのでしょう。」(同書p256)と話されている。
これを読んだとき、先生もそのことに気づかれていたのですねと感嘆した。この『歎異抄』の仮定表現は、信仰が必ず持っていなければならない「救いの平等性」を確保する。もしこれが「故に」という言葉でつなげられていたとすれば、それは権威主義の信仰になってしまう。「お釈迦さんがまことなるが故に善導大師がまこと。善導大師がまことなるが故に法然上人もまこと。法然上人がまことなるが故に親鸞もまこと」と、自分の信仰を「まこと」の権威で確保しようとする発想になる。この権威主義の信仰とは、親鸞以前の仏教が祭り上げてきた、「成仏道」としての信仰である。祭り上げられた頂点にいるお釈迦さんに問題があるわけではないのだろう。祭り上げてきた弟子たちの問題なのだろう。信仰は、「常に」というべきか、「必ず」というべきか、権威主義に傾斜しやすい。権威主義とは「タテ型思考」である。「先輩・後輩」などという発想である。人間社会では通用する言葉でも、仏法の前には無用の言葉だ。〈真・宗〉は「ヨコ型思考」だからだ。お釈迦さんも、親鸞も、私も「ヨコ並び」という思考だ。法の前では平等でなければならない。この平等性も、他者と比べた平等性ではないので、自己の内面でしか確認できないものである。人間が作る平等性は、必ず「条件付き」だが、仏法の平等性は「無条件」だ。
それを確保する表現が「仮定形」である。親鸞が、「まことにおわしまさば・まことにおわしまさば・まことならば」と仮定表現をとったのは、「親鸞一人」が阿弥陀さんと対話した中での受け止めだからだ。私に於いては「まこと」だと受け止められるのだが、果たして皆さんがたはどう受け取られますかという意味が込められている。それで第二章の末尾が「面々の御はからいなりと云々」で結ばれる。この「面々のおんはからいなりと」というのは、救いの平等性を確保するとともに、信仰の自律性を確保する表現だ。それを失えば「〈真実〉の信仰」ではなくなる。
「親鸞一人」においては間違いないことといただけても、そのことを決して他者には強要しない。いや、強要できないようにさせられるのだ。それは阿弥陀さんの本願の強制力がはたらいているからだ。
やはり〈一人一世界〉が〈真実〉の世界だから、こういう仮定表現をとらざるを得ないのだ。「一世界全人類包摂世界観」が〈真実〉だとしたら、〈真実〉は一つに絞られてしまう。これは「故に」で綴られる世界になる。そうではなく、〈一人一世界〉にとって、〈真実〉は一つなのだ。「それでは〈真実〉がひとそれぞれでバラバラになってしまうではないか」と危惧する思いが沸き起こってくるは、その発想が「一世界全人類包摂世界観」に洗脳されているからだ。実はバラバラこそが〈真実〉なのだ。バラバラでなければ〈真実〉ではないのだ。
バラバラを怖れる必要はないのだ。もともと我々はバラバラの〈一人一世界〉しか生きてはいないからだ。ここが私の生きてきた唯一の世界だからだ。私の前には、前人未踏の阿弥陀さんしかいない。横を見れば同行がいる。みんなこの阿弥陀さんと対話しながら日々を生きているのだ。
「一切衆生悉有仏性」という言葉を発見したのは、バラバラこそが〈真実〉だと直感できたららだろう。蓮如さんの500回忌のテーマは、「バラバラでいっしょ 差異(ちがい)を認める世界の発見」だったが、「バラバラ」が〈真実〉であることを認め合う「いっしょ」は、「面々のおんはからい」を経由しなければならない。「面々」の内面でのみ、「いっしょ」が確信されるのだ。
北陸で法話をしていると、聴衆の中から、「そうやぁ」という声が上がるときがある。それは決して「大声」というものではない。この「そうやぁ」は他人に向けられてはいないからだ。仏法の道理に感動し、そのひとの内面から、思わず「そおやぁ」とわき上がってくる声である。もっと解説すれば、「そうや、そうに違いない。それこそ〈真実〉や。」と同感が喜びとなって突き上げてきた声である。これが「バラバラでいしょ」が現実のなった姿であろう。私も、この箇所に出会ったとき、思わず内心で「そうやぁ」と叫んでしまった。〈真実〉は時間と空間を超えて、共感という大地を開くものである。