掴もうとすれば逃げる

掴もうとすれば逃げる。だが、捕まれていたと目覚めれば、すでにして、その中にあった。
もっと丁寧に言ってみよう。
掴もうとすれば目的は未来に逃げる。しかし、捕まれていたことに目覚めれば、すでにして私は目的の中で暮らしていたのだと、〈いま〉気づく。
 何を掴もうとしていたのか。それは自分には分からない。お釈迦さんも、覚りを目指しているときには、まだ得ていないのだから、目的の覚りがどういうものかは分からないはずだ。親鸞にしても、「如来回向の信心」を得たいと藻掻いていたときには、それがどういうものなのかは分からなかったはずだ。ただ、目的が欲しいという欲動だけに突き動かされていただけだ。
 この「行じて証を得る」という自力の発想しか人間にはできない。この発想をもとにして、お釈迦さんも親鸞も、そうやったのだから、自分もそうやろうと発想してしまう。しかし、この発想は不可能なのだ。何が不可能にしているのかと言えば、「行じて証を得る」という発想は、〈いま〉の満足を拒否するからだ。未来に目的を立てれば、立てた途端に、〈いま〉が不満足になるからだ。この発想は、「健全な発想」だと思っているのだが、これが間違いだった。
いまのままではダメだと未来に目的を立てざるを得ないのだが、その発想が〈いま〉を殺してしまうのだ。
そのことに目覚めるときがある。そうすると、実は掴もうとしていた目的が、もうすでにして成り立っていた。それは掴もうとして、掴めたというような満足ではない。まったく逆に、すでにして捕まれていたことへの目覚めの満足だった。
 これは「時間の逆流」である。いまから未来へという流れでなく、未来と過去が〈いま〉へと流れ込んでくる時間となる。〈いま〉以外に過去も未来もないのだ。この過去はどこまでも遡り、「弥陀成仏のこのかたは」から逆流してくる。未来も延長され、宇宙消滅のときから逆流してくる。自分は、「十劫の昔」から、そして「永遠の彼方」までを融通するものだった。
 別の言い方をすれば、能動という世界が消え失せて、受動以外になくなる。能動は、行為をする動機の「始発点」を自分に置こうとする。しかし受動はその「始発点」を自分から奪う。能動の「始発点」は自分にはなかった。これが〈真実〉だった。能動の「始発点」を奪われてみると、自分は、すべての受動で満たされていたことに目覚める。
「これでよい」ということを、決して言わせない絶対受動の還流に晒されいる。