聴聞の必然性

この世は、〈私一人〉の世であり、生きていると、間違いなく言い得るのは、〈私一人〉である。つまり、要約して言えば、「生きているのは私一人」だ。こんなに単純な、しかし当たり前になっていて、誰も問うたことのない出来事が、〈私一人〉であった。もし、この世が〈私一人〉だけのものでなければ、「仏法聴聞」は無意味になる。もし法事で、故人だけが問題であれば、それは追善供養に終わってしまう。法事は故人が主役ではなく、故人をどう見ているかという自分自身が問われる場である。故人が浮かばれていると受け取るか、迷っていると受け取るか。それは自分自身の「死」をどう受け取るかということを抜きにしては成り立たない。
真宗教団が「聴聞」をやかましく勧めるのは、この世に生きているのは〈私一人〉以外にないからだ。もしこれがぶれてしまえば、つまり、この世を生きているのが他のひともいるとなれば、それは聴聞の必然性はない。どこまでも、「この世は〈私一人〉を教育する阿弥陀さんの学校」だとならなければ、聴聞などをする必然性はない。
ついでに聞くのでもなく、教育されるために聞くのでもなく、知識を蓄えるためだけに聞くのでもない。聞かざるを得ないから聞くのである。聞かざるを得ないのだが、聞いてもなかなか自分好みには聞けない。それでも聞いているうちに、本当は、聞きたくてしかたがなかったと感じてくる。やはり、聞きたくてしかたがなかったことを聞くのだ。聞いて、ドキドキ、わくわくする〈真実〉を聞くのだ。〈真実〉を食べて真宗門徒は太る。