『テクストとしての小説』のなかで、「書かれたものを眺めるのは、死をみつめることなのである。」とジュリア・クリステヴァは言っている。これを敷衍して言えば、あらゆる表現は、表現がなされたときには、すべて死体になっているということだ。文字言語であっても音声言語であったもだ。そしてそれを文学や音楽や芸術にまで敷衍すれば、あらゆる表現は、それが為されてしまった後には、すべてが「死体」ということになる。
我々は、本であっても、また美術館であっても「死体」以外をみることはできない。「書家」という概念を超えてしまった篠田桃紅は、自分が制作した作品が企画通りに作り上げられている現場を目の前にして、いま、自分にある構想は、この作品には盛り込むことができないと言っていた。目の前の作品は、まだ制作途中だというのに、彼女にとって、それはもう「死体」になっているのだ。頭の中には、もう次の作品の構想ができているという。
これは「因位の要求」ではないか。決して、表現されてしまったものには姿を現さない、しかし、現さずにはおかないという要求ではないか。だから表されて過去になってしまったものには目もくれないのだ。それは「死体」だから。
後から付いていくものは、その「死体」を見ることによって、そこから「永遠」を感じ取らせてもらう。「南無阿弥陀仏」は「死体」だが、そこから無限の「意味」を汲み取るようなものだ。〈ほんとう〉の「南無阿弥陀仏」は、読まれ、書かれ、称えられる以前のところにあるのだ。だから決してそれを人間は命名することができないし、解釈することもできない。
そうとは分かっているのだが、その「死体」から無限の意味を汲み取れと迫ってくるものがある。それは人間が要求するものではないだろう。〈真実〉そのものが要求してくる「因位の要求」なのだろう。
親鸞は生涯に、267811文字の表現をした。これを多いと見るか少ないと見るかは視点の違いだ。しかし、主著である『教行信証』をいつまでも書き換えられているところを見ると、「死体」に飽き足らず、つねに「死体」に息を吹き込もうとしていたようだ。だから本質から言えば、『教行信証』は未完の書と言ってもよい。しかし、つねに完結の書と言うこともできる。この未完と完結の往還運動のところに辛うじて成り立っているものだろう。それは「因位の要求」が、そうしているのだ。
やまり親鸞も〈真実〉に取り憑かれた存在だったのだろう。