現在、出版の準備をしているものが二つあり、それにかかりっきりになり、ブログの更新が滞っている。一つ目は、三月にお話しした「真宗入門講座」の講演録だ。これを『真宗入門』というタイトルでリメイクして出版する予定だ。ボリュームは160ページほどである。
二つ目のは、例の「デッサン」シリーズ第三弾、『〈真実〉のデッサンⅢ』だ。これは230ページほどのボリュームになっている。
「出版のスピードが速すぎて、読むのが追いついていけません」という感想をもらった。この感想をもらって、小生は邪推した。こういう感想を送ってくるひとは、まず本を読んではいないひとだと。まあ自分から読みたいと思って買った本は、読みたいという動機が読ませるが、送られてきた本はそういうわけにはいかないからだ。まあそれを読むか読まないかは、「面々のおんはからい」(『歎異抄』第2条)にまかされているのだから、仕方がない。
あらためて本を読むということが、どういうことかと問われた。確かに現代人は、「黙読」ができるように訓練されているから、黙って文字を眼で追っていくことが可能だ。中世のキリスト教の修道院では、「黙読」は悪魔との対話であると禁じられていたと聞いたことがある。つまり聖書は、「音読」、必ず声に出して読まなければならなかったそうだ。そうすれば、そのひとがいま何をしているのかが、周りの人間に分かって安心だからだろう。しかし、「黙読」は万が一、そのひとが、神さま以外のことを考えているかもしれないから、「黙読」は怪しまれ、禁止されていたそうだ。
まあたとえ「音読」だからといって、そのひとが神さまだけのことを考えているという保証はない。「音読」していても、こころここにあらずということはいくらでも起こる。
それはそれとして、「音読」と「黙読」の御利益は違うものだ。「音読」は文字を音声言語に変換することだから、その音声を自分自身の耳で聞くことができるというメリットがある。『歎異抄』の原文など、「音読」と「黙読」はあきらかに違ったものになる。それこそ「黙読」では読めていなかったものが、「音読」でハッキリと読めていなかったことに気づく。話は飛躍するが、「称名念仏」というものも、そいういう面がある。黙って「南無阿弥陀仏」と読むのと、声に出すのとでは違う。「黙読」は自分の目で見てこころで思うから、すべてが自分の内側で起こっているように感じる。だが、「音読」は、口から音声となって飛び出した「南無阿弥陀仏」が、外部から自分の耳へと聞こえてくる。音声にすると、これは外部からの声となって鼓膜を揺する。「南無阿弥陀仏」と称えているのは凡夫の自分だが、これが声となって外部から聞こえてきたときには「諸仏の声」となる。だから法然は「称名念仏」にこだわったのだろう。
話を戻そう。「音読」は長時間の読書には耐えない。喉が疲れてきて無理だ。それに引き換え「黙読」は長時間していても疲れないから凄い。「黙読」という技術を身に付けてしまった「大人」は、何ともないと思っているけれども、これは凄い読書法なのだ。しかし、「黙読」は至って内面的な行為だから、こころここにあらずという状態になることがしばしばだ。むしろ、言葉が自分を説得する意味に変換されなければ、いつでもこころここにあらずという状態になる。眼だけが文字を追っているけれども、一向に読めないというのは、そういう状態だ。
だから文字が読めるから、その本を読めるかといわれれば、そういうわけにはいかない。本を読むには、こちらの頭ができるだけ柔らかくなっていなければならない。それが本を受け入れるときの態度だ。自分の固定観念が邪魔をしない状態になっていなければ、文字は追えても本は読めない。つまり、眼までは届いても、こころまでには沁みていかない。
いま思いついたが、自分のこころの井戸が深くないと、本を受け入れられないのだろう。自分の井戸が浅ければ、本もその程度のこととしてしか受け取れない。自分の井戸が深まれば、本も深く受け取ることができる。こうやって比例して深まっていくのが「読む」という行為なのかもしれない。
その井戸は人間の悲しみの井戸かもしれない。知床観光船の沈没事故で、亡くなった三歳の女の子への悲しみ、御巣鷹山に墜落した飛行機に、大阪であるプロ野球の試合を観たいという小学生を一人で乗せたご両親の悲しみ。これらの膨大な「まさか」への悲しみが、井戸の深みだ。そして、人間は「まさか」ということ以外では亡くならないという鉄則への悲しみである。
ジュリア・クリステバが「文字は死体である」というようなことを書いている。確かに文字は動かない。でも、文字が「死体」だと見たクリステバの目の深さに驚かされる。これは悲しみの眼であり、それがなければ、本は読めないことを教えているのではないか。